美空ひばり
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1951年、松竹『あの丘越えて』で人気絶頂の鶴田浩二が扮する大学生を慕う役を演じたが、実生活でも鶴田を慕い、ひばりは鶴田を“お兄ちゃん”と呼ぶようになった。同年5月新芸術プロダクション(新芸プロ)を設立。代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がそれぞれ就任した。同年、嵐寛寿郎主演の松竹『鞍馬天狗・角兵衛獅子』に杉作少年役で出演。以後これを持ち役とした。

1952年映画『リンゴ園の少女』の同名主題歌と挿入歌「リンゴ追分」をカップリングしたシングルが当時の史上最高記録となる70万枚を売り上げる大ヒットとなった。

1953年、『お嬢さん社長』に主演。喜美枝は、ひばりを「お嬢」と呼ぶようになり、その後、周囲もそう呼ぶようになった。1954年7月、正式に契約していなかった松竹から[7][8][9]、初代中村錦之助と一緒に[10][11]、映画3本で1000万円と破格の条件で東映と映画出演の専属契約を結ぶ[8][11][12]。契約時に田岡一雄が同席し凄んだ[8][9][12][13][14]。この交渉時で子どもながら気丈なひばりに将来性を予見した岡田茂(のち東映社長)は[12]、ほぼ一回り年下のひばりの世話係をしながら[15]、歌の実演や地方興行などと撮影のスケジュール調整をやりつつ[15]、ひばり作品の量産体制に入った[16]。中村錦之助と映画「ひよどり草紙」で共演[17]。二人が組んだとき、岡田は「これはいける」とピンときた[15]。東映のツキ初めはここであった[10]。錦之助は翌年、東映時代劇の大スターとなった。この後、新人男優がひばりの相手役となることは、大スターへの登竜門のように言われた。錦之助とひばりは、共演後にたちまち恋仲となり周囲が猛反対した[17]。それでも別れないため田岡一雄が困り果て、岡田茂に頼み、岡田が諄々とふたりを諭して別れさせた[18]。晩年でもひばりは、錦之助の話が出ると顔が赤くなったと言われ[19]、1961年11月27日に銀座東急ホテルで錦之助と有馬稲子の結婚式があった日に、加藤喜美枝の使いが「すぐ来てくれ」と岡田に頼み、浅草国際劇場で公演期間中だったひばりがもの凄い仕立ての着物を着て、「錦之助と有馬稲子の披露宴に行く」と言い張っていて、岡田が「明日のスポーツ紙の一面になるじゃない!ひばりちゃん、そんなことダメだよ、やめなよ」と説得したらひばりは号泣し[19]、「あんた長い人生、まだまだあるじゃないか。錦之助が結婚したからって何だ。だいいち錦之助と結婚したら歌舞伎界のおかみさんだよ。いちいち部屋を回ってな、よろしくお願いします、よろしくお願いします、なんて挨拶してまわることなんかあんたに出来るんかい」と言ったら、「ほっといてよ、そんなこと!」と強気だった[19]
三人娘の時代美空ひばり(1954年)

1954年、『ひばりのマドロスさん』で第5回NHK紅白歌合戦に初出場した[注釈 4]1955年には江利チエミ雪村いづみとともに東宝映画『ジャンケン娘』に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博し、親交を深める。但し三人の映画出演のギャラは、はっきり差がつき、ひばり一本750万円、チエミ300万円、いづみ150万円だった[19]。当時のひばりは映画界で最も稼ぐ女優だった[19]。 

1956年、ジャズバンド小野満とスイング・ビーバーズ小野満と婚約。その後、この婚約は破棄となった。初の那覇[注釈 5]公演を沖縄東宝で行い、1週間で5万人を動員。離島からのファンで那覇港は大混雑した。

1957年1月13日、浅草国際劇場にて、ショーを観に来ていた少女から塩酸を顔にかけられ浅草寺病院に緊急搬送されて入院した。現場に居合わせたブロマイド業者らによって塩酸をかけた少女は取り押さえられ警察に引き渡された。犯人の少女はひばりの熱烈なファンだったという。この事件を切っ掛けにひばりは田岡にボディーガードを要請し[20]、代わりに興行権を神戸芸能社に委ねる[20]


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