美空ひばり
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この事件を切っ掛けにひばりは田岡にボディーガードを要請し[20]、代わりに興行権を神戸芸能社に委ねる[20]。その後、歌舞伎座公演に復帰(奇跡的に顔に傷は残らなかった)。また、紅白の裏番組として放送されていたラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)の『オールスター大行進』に出演していたため出場していなかった紅白歌合戦に3年ぶりに出場し、出場2回目にして渡辺はま子二葉あき子らベテラン歌手を抑えて初めて紅組トリ(大トリ)を務めあげ、当時のひばりは既に芸能界における黄金期を迎えていた。

1958年4月1日、山口組三代目田岡一雄が正式に神戸芸能社の看板を掲げた。同年4月、美空ひばりは神戸芸能社の専属となり、同年7月、新芸プロを離れ[19]、8月1日、ひばりプロダクションを設立して[19]、副社長に田岡一雄が就任した。同年8月18日[19]、東映と映画出演の専属契約を結んだ[19]。それに合わせて京都市左京区岡崎法勝寺町に居を構える[19]。『ひばり捕物帳』シリーズや『べらんめえ芸者』シリーズ、『ひばりの佐渡情話』(1962年)など、東映は1950年代後半から1960年代にかけてタイトルにひばりを冠した映画を13本製作[21]、続々ヒット映画にも恵まれた。1960年から始まった『べらんめえ芸者』シリーズでは二作目以降、岡田に頼まれ、高倉健を相手役として迎えた[22][23][24][25]。『べらんめえ芸者』シリーズは、笠原和夫笠原良三の脚本で始まったもので[26]、笠原和夫は脚本家デビューしてすぐに美空ひばりの主演映画を書くという幸運に恵まれ[26][27]、東映調の娯楽映画のスキルが磨かれた[26]東千代之介や高倉健、里見浩太朗らはひばりとも共演で人気を高めた[19]。ひばりは東映と専属契約を結んだ1954年から1963年まで10年間[16][28]、多くの時代劇、チャンバラ映画に主演し、東映時代劇の黄金期を支え、歌手であると同時に映画界の銀幕のスターとしての人気を得た[28][29]。専属期間だった10年間だけで、東映でのひばり出演作は102本に及ぶ[16]。ひばりは「岡田茂さんは東映時代の恩人。岡田さんなくしては、映画俳優としての自分の存在はなかった」と話し[30]、岡田茂は「美空ひばりは東映の女優の中で、会社にとって最も重要な役割を果たした」[28]「錦之助さんともども東映の土台を作った偉大なスター」と評している[30]。生涯で170本を超える映画に出演し[19]、そのほとんどが主演で、映画の題名に『ひばりの〇〇』と付いた作品は47本で日本一である[19]。題名に『ひばり』が付いているだけで安定してお客が入った[19]戦後を代表する映画女優であった[31]。ひばりは女優として日本映画史をみてもズバ抜けた興行力があり、俳優としても日本映画に貢献した[19]。ひばり作品に芸術作品・秀作、ましてや映画賞に掛かった作品は一本もなく[19]、今日、ひばりの映画女優としての側面には必ずしも多くの光が当たっているとはいい難いが[19]、生涯、娯楽作品に徹し、ファンもそれを喜んだ[19]ブルーリボン賞は、1961年度の第12回でひばりに大衆賞を授与した[19]。「映画主演で13年間大衆に愛され親しまれて来た功績」と信念が貫かれたことが認められての授与理由で、ひばりが喜んだことは言うまでもない[19]

1960年、『哀愁波止場』で第2回日本レコード大賞歌唱賞を受賞、「歌謡界の女王」の異名をとるようになった。
小林旭との短い結婚・離婚後1962年5月29日、ひばりと小林旭は婚約発表した。

1962年5月29日、小林旭との婚約を発表。出会いは雑誌が企画した対談の場だった[32]。交際を始めるが、小林は結婚をまだ考えていなかったにもかかわらず、ひばりが入れあげ、父親代わりでもあった田岡一雄に、自分の意志を小林へ伝えるよう頼んだ[32]。ひばりの意を汲んだ田岡は小林に結婚を迫り、小林は断れなかったとされる。同年11月5日に挙式した[32][33]。喜美枝はこの結婚を快く思っていなかったようで、人生で一番不幸だったのは娘が小林と結婚したこと、人生で一番幸せだったのは小林と離婚したことだと後に公言して憚らなかったほどである。小林は「結婚生活でのひばりは懸命によき妻を演じようとし、女としては最高だった」と『徹子の部屋』で述懐している。小林は入籍を希望していたが、ひばりの母に不動産処分の問題があるからと断られ続け、入籍しておらず(いわゆる事実婚)、戸籍上ではひばりは生涯にわたり独身であった[33]。ひばりは一時的に仕事をセーブするようになるが、実母にしてマネージャーである喜美枝や周辺関係者が二人の間に絶え間なく介入し、結婚生活はままならなかった。また、ひばりも歌に対する未練を残したままだったため、仕事を少しずつ再開し小林が求めた家庭の妻として傍にいてほしいという願いも叶わなかった。また結婚した翌1963年には、増吉が肺結核により52歳で亡くなっている。

別居後の1964年、わずか2年あまりで小林と離婚。ひばり親子に頼まれた田岡から会見2日前に、「おまえと一緒にいることが、ひばりにとって解放されていないことになるんだから、別れてやれや」と引導を渡され、逆らうことは出来なかったと小林は自著で述べている[33][34]。記者会見は別々に開かれ、小林の会見には田岡と菱和プロ社長・嘉山登一郎が同席した[34]。小林は「本人同士が話し合わないで別れるのは心残りだが、和枝(ひばりの本名)が僕と結婚しているより、芸術と結婚したほうが幸せになれるのなら、と思って、理解離婚に踏み切った」と説明[34]。この「理解離婚」という言葉は当時流行語となった。「未練はいっぱいある。皆さんの前で泣きたいくらいだ」と離婚は小林の本意でなかったとも語っている。

その1時間半後にひばりも田岡に同席してもらい、記者会見を行った[34]。ひばりは田岡に口添えされながら、「理由をお話したいのですが、それを言ってはお互いに傷つける」「自分が幸せになる道を選んだ」と答えた[34]。また「私が芸を捨てきれないことに対する無理解です」「芸を捨て、母を捨てることはできなかった」とも語り、今後は舞台を主に頑張ると語った。

離婚直後に発表した『』は東京オリンピックともあいまって翌1965年にかけて大ヒットした。


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