美容師免許を持たない「自称・美容家」や「ヘアメイクアーティスト」と称する者が、あたかも「美容のプロ」のように装い、ホームページやSNS(ソーシャネットワークサービス)、YouTubeで集客し、自宅やレンタルスペース等の美容所として無認可の場所で、ヘアメイクサービスやメイク教室を開いて、人の顔にメイクを施すことも違法行為である。看護師が患者にメイクしたり、ブライダル関係の着付師が無免許でメイクを施したりすることも、美容師法違反である[6]。
化粧品メーカーの販売員である美容部員は、販売に必要な化粧品使用法や使用感を説明する範囲の仕事であり、メイクを施すのは本来は違法である。しかも、その美容部員が化粧品会社を退職した後は、美容師免許の不所持で美容業を行うことはできない。美容部員は美容業のキャリアにはならず、国家資格の要件を満たすことはない。 江戸時代における理髪店である髪結床は、女性の髪結や男性の丁髷(ちょんまげ)を結ったが、明治4年8月9日発布「散髪脱刀令(断髪令)」より「近代理容業
美容師免許の有無の判別
美容所として保健所に認可されるには美容師免許が必要である。美容師や美容所は、美容師法で管理されているため、その美容サロンが美容所として認可されているかは地域の保健所に電話で問い合わせることができる。
美容師免許を有していれば、美容師(ヘアメイク)本人が免許取得者であることや卒業した美容師養成施設名を公言したり経歴に明記している。
無免許の場合、美容師免許所持と書いていない。また、美容師養成施設名やサロンの経歴などの基本的な履歴を明記していないにもかかわらず、無免許であることを隠すために、他人である有名人の名前をプロフィールに使ってヘアメイクを手掛けたと信用させようとしていることがある。何万人のメイクをしたとか、化粧品を1万個試した等と大袈裟に書いたり、掲載された雑誌やメディアの名称等の2次的な事柄を用いて、基本的な美容師養成施設の学歴もないのに、別の事柄で誇大宣伝するなどの営業を試みている傾向がある。
学歴不問で誰でも簡単にすぐに取得できる美容系民間資格ぐらいしか履歴書記載事項がないのに、自称「美容家」「美容研究家」などの肩書を名乗っている。民間資格では美容の仕事はできない。美容師免許を取得していないことに変わりはない。
化粧品が好きだったり、化粧品の種類に詳しいことと、人に美容を施すこととは対象が異なる。美容師は化粧品メーカーや種類に詳しいことよりも、ヘアメイクやエステティックなど、美容の専門家として使用材料と道具の正しい知識と技術を身に着けていることが重要となる。
美容師の歴史
美容師法制定前
大正2(1913)年、山崎晴弘(山崎富栄の父)がお茶の水に立ち上げた『東京婦人美髪美容学校』(お茶の水美容学校)が最初に東京府に認可され、結髪技術[注 1]の教授を目的に「女髪結」の師匠たちによって設立。2年の専門課程を卒業すると美髪師の資格が得られた[3]。この当時は「美容」という用語が一般的でなかったため、理髪業界が理髪衛生の知識と技術の普及を図る目的で1906年設立した大日本美髪会から引用したと考えられる。また「美髪」は、Hairdressingを訳した用語という説も存在する。この学校の教科に美顔術(理髪師の大場秀吉や芝山兼太郎)があり、女髪結の近代化の原点は、皮膚の生理や病理、衛生管理などの医学的知識の習得にあったと考えられる。
大正11(1922)年、肌と髪の手入れ法や化粧法を教授する専門校として、日本女子美容術学校が北原十三男によって東京に設立された。また、戦前期の公立の実業学校にも、理美容の養成課程は存在していた。大正時代は都市の一般大衆の生活の欧風化が進展し、女性の社会進出もみられ、日本髪や束髪は衰退傾向にあった。
大正15(1926)年に東京府に認可された高木女子美髪学校の教科に洋髪技術について記載。一方で無認可の学校や講習所も存在した。「美容講習所」がその一つで、設立者のマリールイズ(東京府への各種学校認可届には、マリー・ルゥヰズとなっている)は、日本の美容業界のパイオニアであり、ウエーブ技術の普及によって、日本髪・束髪(女髪結)から洋髪への過渡期における近代美容の礎を築いた。美容の近代化に果たした遠藤波津子や山本久栄(独学で女髪結となり、1910年美粧倶楽部開設、1929年日仏女子整容学校設立、1931年左記を甲種実業学校に昇格させ、美容における高等教育化を目指した)、山野千枝子(ニューヨークで美容師となり、帰国後1922年、丸ノ内美容院を開業した。吉行あぐりの師匠であり、戦後ロレアル頭髪部門を日本に紹介した。コーセー化粧品の顧問を歴任した)、メイ牛山 (初代)らの功績も大きい。
「教えない」ことが本音の徒弟制度下にあった女髪結たちが学校を設立した裏には「賤業からの脱却」という地位向上への熱き思いがあった。女性が仕事を持つことや、女髪結にまつわる様々な偏見を少しでも払拭するために、学校は「結髪二関スル知識及技能ヲ授ケ貞淑有為ノ婦人」の養成を担う役割を持った(東京女子美髪学校の校則にもある)。また、大正期以降、特に美顔術と洋髪技術(ウエーブ形成技術)を持った美容師の隆盛に対抗するという意識もあったと考えられる。昭和以降洋装の進展と共に、ウエーブを持った髪型が、それまでの波状毛蔑視の概念を一変して流行するようになり、この技術を女髪結たちも受入れざるを得ない状況になった事で融合していった。ここには、1935年以降マーセルアイロンやフィンガーウエーブなどのウエーブ形成技術に対して、パーマネント・ウエーブ技術とその機器の国産化による普及が、この傾向を後押ししたと考えられる。
これらの養成について法令上は、戦前期は道府県別理髪営業取締規則により理髪人と女髪結、美容師は規制され、1899(明治32)年には京都府で最初に衛生管理を義務づけた理髪規則が定められた。その後規則違反が後を絶たず、規則強化のために、1918年大阪が最初に衛生管理の知識を問う試験を導入し、合格により営業が認可された。この時大阪は養成校を指定校と認定する規定を作り、指定校で規定期間修学し卒業すると無試験認定を受けて開業が可能となった。1930(昭和5)年に試験を導入した東京府は、養成校の質に差がある事を問題視して、指定校規定を設けず、開業資格は試験のみで付与された。道府県別理髪規則であったことにより、様々規定に相違があり、公的職業資格制度の範疇にはなかった。戦後2回、高等学校指導要領に理美容師養成課程を設ける案が提出されたが、すべて理美容師養成施設業界の圧力で廃案となり、理美容師の養成は私立専門学校がほぼ独占した。 1957年、理容師法から美容師法が独立。美容師法は『美容とは「パーマネントウェーブ、結髪、化粧等の方法により、容姿を美しくすること」とされている。美容師がコールドパーマネントウェーブ等の行為に伴う美容行為の一環としてカッティングを行うことは美容の範囲に含まれる。また、女性に対するカッティングはコールドパーマネントウェーブ等の行為との関連を問わず、美容行為の範囲に含まれる。』となっており、カットを含め、化粧・マニキュア・ヘアーエクステンションなど女性のための業となっている。2015年7月17日、厚生労働省から新たな通知が出され、性別に関係なく理容師のコールドパーマネントウェーブと美容師のカッティングが認められた[4]。 刑務所内でも、模範囚の場合、美容師の教育を受けることができる。 海外の美容学校を卒業しても、日本では美容を業とすることはできない。日本の美容師養成施設を卒業していなければ、日本の美容師国家試験は受験できない。 美容師はCosmetologist(コスメトロジスト)といい、全米各州が実施する国家試験合格で取得できるヘアスタイリング、メイクアップ、ネイル、エステティック、アイラシュ等、美容に関する全ての資格である。職業別で同国美容師の修得は他の職種の平均より早くまた今後20%成長すると予想されている。美容師が開業するには州の免許が必要であるが、資格は州によって異なる。
美容師法制定と美容師免許
海外の美容師
海外の美容師免許
アメリカ
国家試験は、日本の美容師免許と同様に、学科と実技がある。学科は英語の筆記試験を行い、アメリカの美容師養成施設で規定時間1000時間数(約1年)修了証明書を提出する。一般に美容師になるには、16歳以上であることが必要であり、高校卒業資格またはGEDを、受験17歳以上で高校卒業証明書(必須)を取得し、美容師養成施設は州の認可を受けた理容師または美容師学校であることが必要である。フルタイムのプログラムは9ヶ月以上であることが多く、同国の準学士を取得することができる。受験には、ソーシャルセキュリティー番号か、ITINが必要となる[7]