美学
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そして、感性的認識そのものの不完全性は避けられねばならず、この不完全性は醜である。(第14節)

ギリシャ・ローマ時代には美学という明確な術語が存在しなかった[8]。古代にも美と芸術は存在論、形而上学、倫理学、技術論などから捉えられたが巨視的な考察は乏しかった[8]。また、古代における美学の捉え方は特定の局面の断片的または個別的なものにとどまっていたと考えられており、組織的な考察は行われてはいなかった[8]

哲学的美学(Philosophical Aesthetics)としての美学は、18世紀初頭、イギリスのジャーナリストジョセフ・アディソンが雑誌『スペクテイター』の創刊号に連載した「想像力の喜び」から始まったと言われている[10]

美学という哲学的学科を創始したのは、ライプニッツヴォルフ学派の系統に属すドイツの哲学者バウムガルテン(A.G.Baumgarten,1714-62)である。バウムガルテンは1735年の著書で、美学に新しい概念を与え[11]の美学的価値の原理的考察を思考する学としてaestheticaという学を予告した。『美学(Aesthetica)』第1巻は1750年、更に第2巻が1758年に出版された。この著書のなかで、バウムガルテンは芸術の本領が美にあり、その美は感性的に認識されるという考え方を示し、芸術と美と感性の同円的構造を打ち立てた[12]

18世紀に入って余暇活動が盛んになると、美学に関する広範な哲学的考察が本格的に展開された[10]。初期の理論においてイマヌエル・カントは最も影響力を持っていた[10]ロマン主義の登場や政治革命の時代になると、これに関連した美的概念として、崇高性が評価されるようになった[10]。崇高性はエドマンド・バークが A Philosophical Enquiry into the Origin of our ideas of the Sublime and Beautiful で理論化した概念である[10]

シェリングの『芸術の哲学』講義、ヘーゲルの『美学』講義などを経て、フィードラー(de:Konrad Fiedler)の「上からの美学」批判を受け、現代に至る。

現代美学において特筆すべきは、実存主義分析哲学ポスト構造主義によるアプローチであろう。分析哲学の手法を用いて美学的な問題を扱う学問は、分析美学と言われる[13]。分析美学の主要なテーマの一つに芸術の定義がある[14]。また、認知神経科学の一分野で、美学的体験や芸術的創造性について、認知神経学や心理学的アプローチにより研究する神経美学(英語版)がある[15]
日本の美学

わびとさびは、不完全、非永続なものの美しさとして、美学の研究対象となった。[16]日本における主要な美学関連学会としては美学会があり、雑誌『美学』(年4回)および欧文誌 Aesthetics (隔年)を発行している[17]。毎年十月に行われる「全国大会」のほか、年5回関東および関西で研究発表会が開催される。なお2001年の国際美学会議(4年おき開催)は日本で行われた。日本の過去から現在の美学者としては、大塚保治大西克礼、三井秀樹、高橋巖、伊藤亜紗らがいる。

日本語の「美学」は、中江兆民がフランスのウジェーヌ・ヴェロン(フランス語版)の著作(1878年)を訳して『維氏美学』(上 1883年11月、下 1884年3月)と邦題を付けたことによる。日本の高等教育機関における美学教育の嚆矢には、東京美術学校および東京大学におけるフェノロサのヘーゲル美学を中心とした講義がある。フェノロサは、日本で仏教に帰依している。[18]また、森林太郎(森?外)による東京大学におけるE. V. ハルトマン美学ら当時の同時代ドイツ美学についての講演、およびラファエル・フォン・ケーベルによる東京大学での美学講義もあげられる。また京都においては京都工芸学校においてデザイン教育を中心とする西洋美学および美術史の教育がなされた。なお東京大学は独立の一講座として大塚保治を教授に任命、美学講座を開いた世界で最初(1899年)の大学である。

日本では西洋のような、思索の集大成としての美学の歴史が、なかなか育たなかった。しかし、いきわびなどの個別の美意識は、古くから存在しており、また茶道日本建築伝統工芸品などを通して、さまざまな形で実践されてきた。

日本の神話におけるアメノウズメの踊りに関する記述には、乳房や女陰に関する言及もある。日本において美学的思考が初めて意識的に理論化されたのは、『古今和歌集』「仮名序」においてである。紀貫之は長く官位が低く、土佐守に任ぜられた時にはすでに60歳をこえていた。土佐日記は土佐で亡くした愛児への思慕や、望郷の念を表した美学にあふれている。[19]

この歌論が芸術批評、創作指標として理論化されたのは、藤原公任(ふじわらのきんとう、966-1041)の『新撰髄脳』、『和歌九品』以降においてであり、、基本的には中国代の画論における品等論の影響と思量される[20]。藤原公任によって最高の歌格とされた「あまりの心」は、藤原俊成鴨長明によって「余情(よせい)」として深度化され、幽玄と関係づけられた。


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