美大予備校
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1908年 - 東洋高等予備校(東洋大学内)

1910年 - 東京高等予備校(法政大学内)

明治30年から40年、西暦で1897年から1907年の間までに設立されこの時期開校された予備校は、旧制中学の卒業生が旧制高等学校や旧制専門学校入試に失敗したものに対して設置した補習学校が知られる。この頃には都市圏での初頭教育・小学校への就学率はほぼ9割以上にも達し、それに伴い上級学校への入学志願者が増加、明治30年代後半からは入試難も社会問題化しつつあった。

当時の法令上の規定では専門学校である私立高等教育機関、後の私立大学が広く受験生を対象として設置した予備補習校、旧制高等学校や専門学校の受験準備だけを目標として設けられた補習校、私学だけでなく府県立も含めた旧制中学校生の上級学校進学用としてそれら中学校内に設置した補習校といった3つのタイプとなる。これらが予備教育機関としての役割を満たしていた。

特に最初のタイプのは高等予備校という名で、後に1918年の大学令以降正式に大学(旧制)となる教育機関が各自の校舎内に設けた予備校であった。ただしこれらはそれぞれの大学に入学するための予備校でなく、官立の旧制高等学校受験を目指す予備校である[1]。

大学となった私立高等教育機関がこうした機関を設置したのは、各私立大学は帝国大学に連結する旧制高等学校に匹敵するものとして、今日の大学教養部等に相当する予科の募集を開始したのであるが、一方で教室や教員の割からして、意外にも予科学生の確保にも苦悩していたからである。予科の修業年限は1年半ないし2年である。さらには予科の授業内容は受験にも対応した普通教育であったがこれに着目すれば予科の授業に高等学校受験を目指す浪人生も参加させれば、その教室と教員、学生数の問題は一挙に解決すると考えてそれぞれ門徒開放したといえ、現在で言う予備校とは異なるともいえる。現在の感覚では予備校は入学試験の対策機関であるが、中等教育機関自体がいまだ発達していなかった明治期発足のこうした予備校は、受験指導を行うと同時に進学希望者の学力を補充する教育機関ともなっていた。そのため修業年限を3年近く、予科として1年程度の課程を設けるところもあり、地方出身者は地元の中学校を中退して、予備校で勉強に励むことが珍しくなかったという。これらは大学側としては授業と教室は一つで済み、そのうえ予科の学生からも予備校生からも授業料を徴収できる、つまり大学にとって彼らの入学金と1年分の授業料を確保できるのである。中には解雇された他予備校の教員を大量に雇い、教養部を完全に予備校化したものもあるという。つまり予備校生側も浪人というより聴講生のように大学に在籍しているというスタンスを確保することが出来ると同時に、学生にとっては聴講生と予備校生の授業料二重払いも回避でき、通いながら志望学校への再挑戦を目指せることになる[3]

ほかに旧制中学校高等女学校師範学校へ入学するための予備校の機能として高等小学校、あるいは陸海軍の学校への予備校(例えば海軍兵醫學校豫備校、現在の海城中学校・高等学校)など、ある特定の学校へ入学するための予備校などがあった。

小学校から中学校へ、中学校から高等学校や専門学校など上級学校への進学志願者は、第一次大戦後で好景気の頃に著しくかつ急速に増加していったという。

大正中期以降、高等教育諸機関へ進学する希望者が増大するのに伴い、旧制高等学校と専門学校が大幅に拡充されて入試難は一時的に緩和されていくにつれ、大正時代後半にかけて私立大学付設の予備校も減少、早稲田大学内に設置していた早稲田高等予備校と専修学校にあった高等予備校の2校になっている。

1918年(大正7年)には東京都で「東京高等受験講習会」発足(1930年(昭和5年)には駿台高等予備校に改称)、現:駿台予備学校である。
昭和期以降の大学受験予備校

この節の加筆が望まれています。 (2019年5月)

昭和初期になると今度は不景気な時代には入試競争は深刻な社会問題と化した。この時期には高等教育機関を卒業しても就職先がないという深刻な事態を起こしていたという。就職難は進学にも影響を及ぼし、旧制中学校卒業生が旧制高等学校の門に殺到するようになっていったという。

このため1927年(昭和2年)には早数学院と東京高等数学塾、1929年(昭和4年)には文理高等予備校、1931年(昭和6年)には東京予備校、1932年(昭和7年)には新宿高等予備校、1933年(昭和8年)には愛知県で河合英学塾、現:河合塾と、相次いで誕生し[3]、戦前までその数は100校近くになっていた[注 2]

第二次世界大戦後の昭和24年新制大学の制度が発足して、それまでの予備校は新制大学入試のために受験生に準備教育を行う場としての方向を確立することになり、高度経済成長期頃から大学受験の大衆化により、数年のうちに予備校は急速に発展するようになった。

1957年には代々木ゼミナールが開校している。他に歴史の古いものとして前述の駿台予備学校、河合塾など、1950年代の中盤から後半にかけて、三大予備校などの大手予備校が急成長する下地が形成された。

1960年代から1970年代にかけて、都立学校群制度共通一次試験が成立したことが追い風となり、予備校は成長期を迎える。祐本寿男は、成長期を支えた予備校として、冷暖房が完備され有名講師を起用するなどの仕組みを持った代々木ゼミナールを挙げている[4]

1970年代1980年代1990年代前半のいわゆる受験バブルの時代においては、現役での進学のほかに高校浪人大学浪人等で高校進学や大学進学することも一般化し(「一浪」で「人並み(ひとなみ)」などと俗に言われた)、独自の予備校文化も形成されるに至った[要出典]。

1990年代後半に入り、バブル崩壊少子化の進展につれて浪人生の数は減少し、浪人生を中心とした本科から現役生を対象とするコースへと重点を置く傾向にあり、推薦入試AO入試の対策、それに伴う高校の内申点定期テスト対策などのニーズも高まった。ただし、依然として難関校の一般入試は高倍率であり、大手予備校は規模を縮小しながら存続するとされる[要出典]。

校種としては専修学校各種学校のほか、株式会社による設置のものもある(東進ハイスクール四谷学院など[注 3])。予備校生が鉄道などの公共交通機関で通学する際は、予備校が学校登録されている場合に限り通学定期券を利用することができる。なお、株式会社設置のものについては学校登録されていないため不可能である[注 4]


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