纒向遺跡
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桃の実は古代祭祀においては供物として使われており、弥生時代の遺跡で多く見つかるが、1ヶ所で出土したタネ数としては国内最多である[17]。また2011年(平成23年)には、この遺跡からマダイアジサバコイなど6種類以上の魚の骨やウロコを確認した。動物もイノシシシカカモの骨など千数百点が見つかったと発表した。
主な検出遺構

唐古・鍵遺跡の約10倍の規模を持ち、東北地方の一大軍事拠点であった多賀城跡よりも大規模であるとする説がある[18]。また、計画的な都市建設がなされていた痕跡と考えられる遺構が随所で確認されている。纒向勝山古墳(上)・矢塚古墳(下左)・石塚古墳(下右)、3古墳に囲まれて纒向小学校がある(国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成)

矢板で護岸した幅5m、深さ1mの直線的な巨大水路が2本あり、「北溝」「南溝」と称される。

南溝:箸墓古墳の突出部先端付近の巻向川から北西方向の現纒向小学校方向に延びる。水源は箸墓古墳周濠。濠の背後に国津神社があり、現在の巻向川に到達する。

北溝:北東の旧穴師川から南西方向に延びる。水源は旧巻向川である。

両溝の合流地点は纒向小学校グラウンドの中にあり、推定2,600mにおよぶ。これは大和川と通じており、遠く外海へと結ばれている。

底からは湧水がみられ、内部は大きく分けて3層に分かれている。径約3m・深さ約1.5mの一方が突出する不整形な円の土坑が約150基検出された。

掘立柱建物跡と、これに附随する建物跡(古墳時代前期前半の2×3間で床面積約23m2の建物、家屋倒壊遺構と黒漆塗りの弧文を持つ木製品、1×1間の小家屋と2×2間の総柱建物と弧文黒漆塗木製品、纏向玉城宮跡の石碑、宮殿居館の存在が疑われる。その他に掘立柱建物17棟検出)

竪穴建物
ただし、竪穴建物は多くなく、高床建物が建ち並んでいたものと考えられる[7]

弧文板・土塁と柵列を伴ったV字形の区画溝

導水施設跡(宮殿の排水施設か)

祭祀遺跡(穴師ドヨド地区の景行天皇纏向日代宮の伝承地から碧玉製勾玉・石釧・管玉・ガラス小玉、4世紀後半の土器など出土)

製鉄跡 - 「ツクシ型送風管」を伴う小規模の鍛冶遺跡。ふいご羽口1点、鉄滓24点、砥石かその原石4点。終焉は6世紀中頃、開始は3世紀後半(土器編年布留0式と推定する)[19]

集落をめぐる柵

遺跡内に点在する古墳(纒向古墳群


辻地区 建物B

辻地区 建物C

辻地区 建物D

主な出土遺物土器群奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。

弥生時代終末期から古墳時代前期にかけての土器が出土しており、出土した弥生土器土師器により纒向編年がなされている。それによれば、弥生土器第V様式(纒向1類)、庄内式土器(纒向2類・纒向3類・纒向4類)、布留I式(纒向5類)の5期に時代区分がなされている。

絹製の巾着袋

瓦質土器(1996年(平成8年)に土器片の出土。胎土成分組成の分析により、2001年(平成13年)に国内で類例のないものであることが確認され、朝鮮半島の技術で作られたものと判明した)

ミニチュアの舟

木製鏃

石見型楯形(いわみがたたてがた)木製品

多数の搬入土器(外来系土器)

巻野内字坂田では、斜面から日常土器に交じり、形象埴輪片、朝顔形埴輪2点、鶏型埴輪1点、冠型埴輪1点出土、古墳使用とする以前のもので祀りの時に使用され、やがて古墳に取り込まれたものと推定[20]

纏向石塚古墳周濠からは葬送用の木製品が次のように出土している[21]

白木の柱3本、皮をむいた3メートルの長い棒

朱色に塗った鶏形木製品

葬送儀礼用の直線と曲線を組み合わせて文様を施した「弧文円板」と呼ばれる木製品[注釈 1]

ヒノキ樹皮を丸く30センチメートルに巻き縛った円座

古墳築造用の鋤

搬入土器の出身地割合伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%


日本全国で作られたと見なされる土器が出土しているが、中でも大和国に隣接し、古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで東側に位置する尾張国で造られた物が多い。また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含むものの、九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、魏志倭人伝に記載されている鉄器も僅かしか出土していないことから、この遺跡では大陸との交易は乏しかった[7][23]と類推されている。

土器群
桜井市埋蔵文化財センター展示。

辻地区土坑4 出土品
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。

纒向遺跡の主な古墳

纒向石塚古墳

纒向矢塚古墳

纒向勝山古墳

東田大塚古墳

ホケノ山古墳

箸墓古墳

発掘調査報告書

石野博信関川尚功『纒向』桜井市教育委員会、1976年(昭和51年)9月。

関川尚功・松永博明『纒向遺跡発掘調査概報』橿原考古学研究所、1984年(昭和59年)。

関川尚功『纒向遺跡発掘調査概報』橿原考古学研究所、1985年(昭和60年)。

『纒向遺跡発掘調査報告書』桜井市立埋蔵文化財センター発掘調査報告書28、2007年。

『纒向遺跡』桜井市教育委員会社会教育課、1981年。

『桜井市平成27年度国庫補助による発掘調査報告書』桜井市立埋蔵文化財発掘調査報告書46、2017年。

遺跡の特徴

纏向遺跡はヤマト王権の初期の都市である
[24]

遺跡内に箸墓古墳があり、これは墳丘長280mにおよぶ巨大前方後円墳である。それに先駆けて築造された墳丘長90m前後の「纒向型前方後円墳」も3世紀においては日本列島最大の墳丘規模を持っている。纒向型前方後円墳は各地にも築造されており、纏向遺跡に王権があり、支配関係があり伝播したと考えられている[25]

考古学者の中には最古の巨大前方後円墳が箸墓古墳である事から、箸墓は卑弥呼の墓であっても不自然はないとの見解もある(白石太一郎らの見解)[26]。一方、箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160mであるが、魏志倭人伝における卑弥呼の墓の記述と合わないと云う指摘がある。魏志倭人伝には「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」とあり、この大きさは魏志倭人伝に使われている短里の場合、30m前後であり、箸墓古墳は大きすぎるとの意見がある。

2013年になって、3世紀に建造されたとされる建物の柱穴が100箇所以上にわたり検出された。


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