唐古・鍵遺跡の約10倍の規模を持ち、東北地方の一大軍事拠点であった多賀城跡よりも大規模であるとする説がある[18]。また、計画的な都市建設がなされていた痕跡と考えられる遺構が随所で確認されている。纒向勝山古墳(上)・矢塚古墳(下左)・石塚古墳(下右)、3古墳に囲まれて纒向小学校がある(国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
の空中写真を基に作成)纏向石塚古墳周濠からは葬送用の木製品が次のように出土している[21]。
白木の柱3本、皮をむいた3メートルの長い棒
朱色に塗った鶏形木製品
葬送儀礼用の直線と曲線を組み合わせて文様を施した「弧文円板」と呼ばれる木製品[注釈 1]
ヒノキ樹皮を丸く30センチメートルに巻き縛った円座
古墳築造用の鋤
搬入土器の出身地割合伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%
日本全国で作られたと見なされる土器が出土しているが、中でも大和国に隣接し、古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで東側に位置する尾張国で造られた物が多い。また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含むものの、九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、魏志倭人伝に記載されている鉄器も僅かしか出土していないことから、この遺跡では大陸との交易は乏しかった[7][23]と類推されている。
土器群
桜井市埋蔵文化財センター展示。
辻地区土坑4 出土品
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。
纒向遺跡の主な古墳
纒向石塚古墳
纒向矢塚古墳
纒向勝山古墳
東田大塚古墳
ホケノ山古墳
箸墓古墳
発掘調査報告書
石野博信・関川尚功『纒向』桜井市教育委員会、1976年(昭和51年)9月。
関川尚功・松永博明『纒向遺跡発掘調査概報』橿原考古学研究所、1984年(昭和59年)。
関川尚功『纒向遺跡発掘調査概報』橿原考古学研究所、1985年(昭和60年)。
『纒向遺跡発掘調査報告書』桜井市立埋蔵文化財センター発掘調査報告書28、2007年。
『纒向遺跡』桜井市教育委員会社会教育課、1981年。
『桜井市平成27年度国庫補助による発掘調査報告書』桜井市立埋蔵文化財発掘調査報告書46、2017年。
遺跡の特徴
纏向遺跡はヤマト王権の初期の都市である[24]。
遺跡内に箸墓古墳があり、これは墳丘長280mにおよぶ巨大前方後円墳である。それに先駆けて築造された墳丘長90m前後の「纒向型前方後円墳」も3世紀においては日本列島最大の墳丘規模を持っている。纒向型前方後円墳は各地にも築造されており、纏向遺跡に王権があり、支配関係があり伝播したと考えられている[25]。
考古学者の中には最古の巨大前方後円墳が箸墓古墳である事から、箸墓は卑弥呼の墓であっても不自然はないとの見解もある(白石太一郎らの見解)[26]。一方、箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160mであるが、魏志倭人伝における卑弥呼の墓の記述と合わないと云う指摘がある。魏志倭人伝には「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」とあり、この大きさは魏志倭人伝に使われている短里の場合、30m前後であり、箸墓古墳は大きすぎるとの意見がある。
2013年になって、3世紀に建造されたとされる建物の柱穴が100箇所以上にわたり検出された。