織田政権
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しかし、上杉謙信が天正6年(1578年)3月に死去すると、謙信養子の上杉景勝景虎間で家督を巡る御館の乱が発生した。武田勝頼は越後へ出兵し、景勝・景虎間の和睦を調停するが、勝頼の撤兵中に乱が再発し景勝が乱を制した。これにより武田氏と後北条氏間の甲相同盟が破綻し、勝頼は景勝との同盟を強化し甲越同盟を締結した。

天正8年(1580年)3月には北条氏政が信長に従属を申し入れ[5]、勝頼も信長との和睦を試みるが(甲江和与)、信長はこれを退けている。天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍による武田領侵攻(甲州征伐)により勝頼は滅亡し、上杉景勝は北陸と信濃・上野から織田方に圧迫される。さらに景勝は越後北部からも織田方に寝返った新発田重家の反乱を受けて、危機的状況にあった。

西国では、備前宇喜多氏を事実上従属させた羽柴秀吉中国路備中にまで進軍していた。

四国でも、阿波と讃岐に大きな影響力を持つ三好氏の一族である三好康長を天正9年(1581年)1月に四国に渡海させ、在国して長宗我部氏に抵抗していた三好一族を糾合させて阿波東部と讃岐に勢力を伸張させ、さらに3男の織田信孝を総大将とした軍勢を四国に渡海させようとしていた。

九州大友氏とは天正7年(1579年)に信長が大友義統の官位叙任を奏請したことから誼を結んでおり、またこの前年に耳川の戦いで島津軍に敗れて窮地に立たされていた大友宗麟から島津義久との和睦仲介も依頼されており、その関係から島津氏ともすでに誼を通じていた。

伊達氏など奥州の諸大名も、信長に名馬や鷹を献上するなどして信長に官位叙任の奏請の依頼など誼を積極的に求めており、この頃の信長の威令は全国規模に及ぶようになっていた。

だが、天正10年(1582年)6月2日、信長は家臣の明智光秀の謀反により京都本能寺で自害する(本能寺の変)。このとき、嫡男で織田政権の後継者だった織田信忠二条新御所で自刃した。
清洲会議詳細は「清洲会議」を参照三法師(織田秀信)

その後、織田家の宿老である羽柴秀吉、丹羽長秀池田恒興柴田勝家が会談を行い(清洲会議)、織田氏の家督は3歳になる信長の嫡孫・三法師が継ぐことになり、安土城の修復まで織田信孝の元に滞在することとなり、信孝の美濃領有、織田信雄の尾張領有などが決定した[6]。これを羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が合議により補佐することで織田政権の運営を行うことが決定した。
天正壬午の乱詳細は「天正壬午の乱」を参照

本能寺の変後、北条氏は織田政権から離反し織田領国に侵攻した。徳川家康は織田政権からの許可を得て北条氏の討伐戦を行った[7]。家康はさらに上方へ援軍の派遣を要請したが信雄派と信孝派の対立が起き、援軍の派遣は中止され、その後信雄、信孝双方から和睦の勧告があり、北条氏と徳川氏は停戦した[8]
豊臣政権の確立まで詳細は「豊臣政権」を参照

清須会議後、信雄と信孝の間で対立が起きた。天正10年(1582年)11月、信雄派の秀吉は大徳寺で羽柴秀勝を喪主として織田信長の葬儀を行った。秀吉は柴田勝家が領国の越前に帰国し、雪で動けなくなった時期を狙い、安土城修復後も信孝が三法師を岐阜に止めた事を名分に信孝を攻撃。三法師成人までの間の織田家家督代行を織田信雄に委ねることを認めさせた。さらに賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を倒し、秀吉の権力が強化されていった。家督代行となった織田信雄が安土城に入り城下に法令を施行し、前田玄以を京都所司代に任用するなど織田政権を動かし天下人と認識されるまでになった[9]

この織田家家督代行の織田信雄と羽柴秀吉が対立。徳川家康と組んだ信雄は小牧・長久手の戦いで勝利するが、戦闘を継続できずに和睦し、織田政権は実質的に秀吉の傀儡政権となった。その後、秀吉が関白になり織田政権を吸収して豊臣政権を樹立した。豊臣政権では織田信雄が領土・官位等で優遇を受けたが一大名に転落した。織田秀信織田秀雄は豊臣一門と同様に遇された。
年譜

永禄11年(1568年)

9月7日 織田信長、京都に向け岐阜を出発
[10][11]

9月12日 観音寺城の戦い。六角氏没落。
足利義昭

9月26日 足利義昭、信長上洛[12][13]

10月18日 義昭、将軍宣下[12]

10月 信長軍、大和に侵攻し平定する[14]

10月 義昭、畿内の守護職を再編[14]

永禄12年(1569年)

1月5日 本圀寺の変

1月12日 織田信長、足利義昭に殿中御掟を上程[15]

8月24日 大河内城の戦い

10月17日 義昭と信長との間で意見の相違。信長、岐阜に帰国[16]

永禄13年・元亀元年(1570年)

1月23日 織田信長、殿中御掟に五箇条を追加し足利義昭に上程する[15]

1月23日 信長、畿内・近国、諸国の大名らに将軍・義昭への出仕を求める[17][18][19]

4月20日 信長、若狭征伐に出陣[20]

5月 信長、湖南各城に宿将を配置[21]

6月4日 野洲川の戦い。六角氏を討伐[21][22]

6月28日 姉川の戦い

8~9月 野田城・福島城の戦い

9月 志賀の陣
顕如

9月12日 本願寺顕如、信長に叛旗[23]

9月23日 義昭と信長、摂津の陣から撤退[24]

10月 三好三人衆、河内から南山城に進出[24]

11月 伊勢・長嶋一向一揆が蜂起。織田信興自害[25]

12月17日 信長、勅命講和により朝倉氏、浅井氏と和睦。

元亀2年(1571年)

5月12-16日 織田信長、伊勢一向一揆討伐のため出陣[26]

9月3日 信長、近江・金森の一向一揆を鎮圧[27]

9月12日 比叡山焼き討ち

9月30日 信長、朝廷の財政支援策として洛中洛外の各町に米を貸し付ける[28]

元亀3年(1572年)

1月 近江・金森の一向一揆が再び蜂起[29]

1月 「元亀の起請文」。


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