織田信雄
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^ もとは佐々木主水政勝[2]と言い、六角義賢の第四子・佐々木高一(梅心斎)の子。高一の大坂城脱出の功により、生駒姓を賜り、嫡男が信雄の娘を娶った[3]
^ 三介は、常陸介・上総介・上野介の三つの介の官位の総称を意味する。
^ 「本所」は荘園領主や国司などの上級諸職所有者をさす言葉。具教ら歴代の国司もこうも呼ばれていた。
^ 直木孝次郎ほか編『日本史B 新訂版』には「のぶかつ」という振り仮名と「のぶお」という振り仮名との双方が記載されている[8]
^ 現在の愛知県江南市
^ 具房の養子または猶子だった場合、信雄からみて、両者ともに義父にあたるので、具房の子であると同時に具教の子であるということがありえる。また当主がすでに具房であれば、具教の養子であったとしても、具房の後を継ぐのであり、具房の猶子ということもありえる。
^ 前年に北畠具教・具房親子によって殺害された人物。
^ 茶会の席で、配膳、給仕をすること役目。
^ 家臣である城主の田丸直昌は信雄を城に招くために自らの城を開けわたしている[34]。直昌は南に移転して宮川沿いに新たに岩出城を築いた。
^ a b 両名はこの年に改名した。
^ 具教の次男。
^ 具教の三男。
^ 具教の従甥。
^ 具教の従甥で女婿。
^ 北畠具教の実弟だが、木造氏の養子となり、永禄12年5月の段階で最初に織田信長に内応していた[46]。四男・織田信良らはこの木造氏を母とする。
^ 織田信長の庶子を身籠ったお手つきの侍女「中條」を下賜された信長の家臣。信州の百姓出身だが諸国を巡礼中に信長に気に入られて、信長の隠し子の父親となり、宿老平手政秀の子埴原寿安を養嗣子にし、徳姫の傅役ともなった。
^ 東門院は文明4年に政郷(政勝)の弟・孝尊が入門して東門院院主となって以来、孝緑(政郷の子)、孝憲(晴具の子)と北畠氏の院主が多く出て、縁が深かった。
^三重県松阪市飯高町森に城址がある。
^ 別名で北畠具親城。三重県名張市長瀬に城址がある。
^ 『織田信雄分限帳』によれば、「御局」は、御内様(正室)の倍の千貫文の知行を得ており、特別な待遇を受けた女性であった[55]
^大阪府箕面市小野原。伊丹城と茨木城の中間にある。
^ 保曾汲/細汲(ほそくみ)ともいう。現在の松坂市域北部の三渡川河口右岸の地。伊勢神宮の参宮古道上にあり、古くから栄えていた。
^ 柘植清広の兄。
^ 『守矢文書』による。
^ 信孝は、所領の北伊勢の15歳から60歳までの住民を根こそぎ動員しているが、それでも兵士や人足が足らなかった。確かに動員は伊勢国からは北伊勢衆のみであった[78]が、信孝は5万石程度の所領であり、14,000名の軍勢がかき集められたことから、南伊勢からも相当数の人員が駆り出されたのではないかと考えられている。この寄せ集めの信孝の軍勢は、変報を聞いて、大部分が持ち場を捨てて逃げ去っている。
^ 信孝の異父兄である小島兵部少輔の誤りか。
^ 美濃衆の1人で吉村信実の子、信実の弟である氏吉の甥。
^ 丹羽姓だが、丹羽長秀とは血縁関係にない。
^ 信雄の家臣で、清洲会議以後は犬山城主だった。
^ 狩野岑信の弟で養子となった人物。青柳斎ともいう。
^ 威加海内は「威、海内に加わる」=「武威が天下で増す」の意味。信孝は「弌剣平天下」の朱印を使用した。父信長を真似たものであろうが、いずれも沢彦の撰であるという。
^ 秀吉の直参家臣である森友重(毛利高政)の養父である。
^ a b c 刈谷城の水野忠重は天正10年(1582年)まで織田信忠、本能寺の変以降には徳川家康ではなく織田信雄に属す(『織田信雄分限帳』)。小牧の戦いにも信雄方として従軍。天正13年(1585年)以降は秀吉直臣。
^ 星合左衛門尉の娘。亡夫が滝川雄利の家臣であったことから、秀吉に懇願して包囲を解いてもらった[125]
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