織田信長
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斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏(一色氏)との関係は険悪なものとなっていた[注釈 32]。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃国に出兵し勝利する(森部の戦い)。同じ頃[注釈 33]には北近江浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している[63]。その際[注釈 33]、信長は妹・お市を輿入れさせた[63]

一方、中央では、永禄8年(1565年)5月、かねてを中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏三好義継三好三人衆松永久通らが、対立を深めていた将軍・足利義輝を殺害した(永禄の変[64][注釈 34]。義輝の弟の足利義昭(一乗院覚慶、足利義秋)は、松永久秀の保護を得ており、殺害を免れた[66]。義昭は大和国(現在の奈良県)から脱出し、近江国の和田、後に同国の矢島を拠点として諸大名に上洛への協力を求めた[67]

これを受けて、信長も同年12月には細川藤孝に書状を送り、義昭の上洛に協力する旨を約束した[68][注釈 35]。同じ年には、至治の世に現れる霊獣「麒麟」を意味する「麟」字型の花押を使い始めている[70]。また、義昭は上洛の障害を排除するため、信長と美濃斎藤氏との停戦を実現させた[68]。こうして、信長が義昭の供奉として上洛する作戦が永禄9年8月には実行される予定であった[68]

ところが、永禄9年(1566年)8月、信長は領国秩序の維持を優先して、美濃斎藤氏との戦闘を再開する[71]。結果、義昭は矢島から若狭国まで撤退を余儀なくされ、信長もまた、閏8月に河野島の戦いで大敗を喫してしまう[71][注釈 36]。「天下之嘲弄」を受ける屈辱を味わった信長は、名誉回復のため、美濃斎藤氏の脅威を排除し、義昭の上洛を実現させることを目指さなければならなくなる[71]

そして、永禄9年(1566年)、信長は美濃国有力国人衆である佐藤忠能加治田衆を味方にして中濃の諸城を手に入れ(堂洞合戦関・加治田合戦中濃攻略戦[75]、義弟・斎藤利治を佐藤忠能の養子として加治田城主とする[注釈 37][注釈 38]。さらに西美濃三人衆稲葉良通氏家直元・安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年[注釈 39]、斎藤龍興を伊勢国長島に敗走させ、美濃国平定を進めた(稲葉山城の戦い[77]。このとき、井ノ口を岐阜と改称した(『信長公記』)[注釈 40]

同年11月、印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめている[79][80]。この印判の「天下」の意味は、日本全国を指すものではなく、五畿内を意味すると考えられており[81][82]、室町幕府再興の意志を込めたものであった[82](→#信長の政権構想)。11月9日には、正親町天皇が信長を「古今無双の名将」と褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが[注釈 41]、信長は丁重に「まずもって心得存じ候(考えておきます)」と返答したのみだった[83]
二重政権織田信長軍 永楽銭(永楽通宝)旗印
織田信長の上洛戦

一方、すでに述べたとおり、三好氏による襲撃の危険が生じたことから、義昭は近江国を脱出して、越前国朝倉義景のもとに身を寄せていた[84]。しかし、本願寺との敵対という状況下では義景は上洛できず、永禄11年(1568年)7月には信長は義昭を上洛させるために、和田惟政村井貞勝不破光治島田秀満らを付けて越前国に派遣している[85]。義昭は同月13日に一乗谷を出て美濃国に向かい、25日に岐阜城下の立政寺にて信長と会見した[85]

永禄11年(1568年)9月7日、信長は足利義昭を奉戴し、上洛を開始した[86]。すでに三好義継や松永久秀らは義昭の上洛に協力し、反義昭勢力の牽制に動いていた[87]。一方、義昭・信長に対して抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の攻撃を受け、12日に本拠地の観音寺城を放棄せざるを得なくなった[86]観音寺城の戦い)。六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した[注釈 42]

更に9月25日に大津まで信長が進軍すると、大和国に遠征していた三好三人衆の軍も崩壊する。29日に山城勝龍寺城に退却した岩成友通が降伏し[90]、30日に摂津芥川山城に退却した細川昭元三好長逸が城を放棄、10月2日には篠原長房も摂津越水城を放棄し、阿波国へ落ち延びた。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。

もっとも、京都やその周辺の人々はようやく尾張・美濃を平定したばかりの信長を実力者とは見ておらず、最初のうちは義昭が自派の諸将を率いて上洛したもので、信長はその供奉の将という認識であったという[91][92]

永禄11年10月18日、足利義昭は将軍に就任した[93]。信長は、畿内の成敗を終えた後、同月26日、岐阜に戻った[93]。義昭は信長に副将軍か管領を授けようとしたが[93]、足利家の桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り、遠慮したとされる(ただし、朝廷や幕府は、文書や礼式上、信長を管領に準じて扱っていた[93][注釈 43]


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