一方、天野忠幸によれば、この上洛は尾張の問題だけによるものではなく、前年に足利義輝が正親町天皇を擁した三好長慶に対して不利な形で和睦をせざるを得なかったことによって諸大名が拠って立つ足利将軍家を頂点に立つ武家秩序が崩壊する危機感が高まり、その状況を信長自らが確認する意図もあったとされる[46][注釈 26]。
桶狭間の戦い詳細は「桶狭間の戦い」および「清洲同盟」を参照
永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻した[47]。駿河・遠江に加えて三河国をも支配する今川氏の軍勢は、1万人とも4万5千人とも号する大軍であった[47][注釈 27]。織田軍はこれに対して防戦したがその兵力は数千人程度であった[48]。今川軍は、松平元康(後の徳川家康)が指揮を執る三河勢を先鋒として、織田軍の城砦に対する攻撃を行った[48]。
信長は静寂を保っていたが、永禄3年(1560年)5月19日午後一時、幸若舞『敦盛』を舞った後、出陣した[49]。攻撃を仕掛けてくるなど全く予想しておらず、油断しきっていた今川軍の陣中に信長は強襲をかけ、義元を討ち取った[50][注釈 28](桶狭間の戦い)。
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河国の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる[注釈 29]。これを機に信長は今川氏の支配から独立した徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる[55]。両者は同盟を結んで互いに背後を固めた(いわゆる清洲同盟)[55][注釈 30]。
永禄6年(1563年)、美濃攻略のため本拠を小牧山城に移す[57]
永禄8年(1565年)[注釈 31]、信長は犬山城の織田信清を下し、ついに尾張統一を達成した[59]。さらに、甲斐国の戦国大名・武田信玄と領国の境界を接することになったため、同盟を結ぶこととし、同年11月に信玄の四男・勝頼に対して信長の養女(龍勝寺殿)を娶らせた[60]。 斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏(一色氏)との関係は険悪なものとなっていた[注釈 32]。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃国に出兵し勝利する(森部の戦い
織田信長 銅像
(愛知県清須市、清洲公園)
善照寺砦跡
(名古屋市緑区)
桶狭間古戦場伝説地
(愛知県豊明市)
小牧山城と小牧の城下町
(愛知県小牧市)
美濃斎藤氏と足利義昭
一方、中央では、永禄8年(1565年)5月、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の三好義継・三好三人衆・松永久通らが、対立を深めていた将軍・足利義輝を殺害した(永禄の変)[64][注釈 34]。義輝の弟の足利義昭(一乗院覚慶、足利義秋)は、松永久秀の保護を得ており、殺害を免れた[66]。義昭は大和国(現在の奈良県)から脱出し、近江国の和田、後に同国の矢島を拠点として諸大名に上洛への協力を求めた[67]。
これを受けて、信長も同年12月には細川藤孝に書状を送り、義昭の上洛に協力する旨を約束した[68][注釈 35]。同じ年には、至治の世に現れる霊獣「麒麟」を意味する「麟」字型の花押を使い始めている[70]。また、義昭は上洛の障害を排除するため、信長と美濃斎藤氏との停戦を実現させた[68]。こうして、信長が義昭の供奉として上洛する作戦が永禄9年8月には実行される予定であった[68]。
ところが、永禄9年(1566年)8月、信長は領国秩序の維持を優先して、美濃斎藤氏との戦闘を再開する[71]。結果、義昭は矢島から若狭国まで撤退を余儀なくされ、信長もまた、閏8月に河野島の戦いで大敗を喫してしまう[71][注釈 36]。「天下之嘲弄」を受ける屈辱を味わった信長は、名誉回復のため、美濃斎藤氏の脅威を排除し、義昭の上洛を実現させることを目指さなければならなくなる[71]。
そして、永禄9年(1566年)、信長は美濃国有力国人衆である佐藤忠能と加治田衆を味方にして中濃の諸城を手に入れ(堂洞合戦、関・加治田合戦、中濃攻略戦)[75]、義弟・斎藤利治を佐藤忠能の養子として加治田城主とする[注釈 37][注釈 38]。さらに西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)[注釈 39]、斎藤龍興を伊勢国長島に敗走させ、美濃国平定を進めた(稲葉山城の戦い)[77]。