織田信長
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信長は救援のため、木曽川を越えて美濃の大浦まで出陣したものの、勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより信長自らが殿をしつつ退却した[注釈 24]
弟との戦い稲生原古戦場跡(名古屋市西区)詳細は「織田信行」を参照

最も有力な味方である道三を失った信長に対し、林秀貞(通勝)・林通具柴田勝家らは弟・信勝を擁立すべく挙兵する[41]。信勝は、父・信秀から末盛城や柴田勝家ら有力家臣を与えられるとともに、愛知郡内に一定の支配権を有するなど、弾正忠家において以前から強い力を有していた[42]。弘治元年には「弾正忠」を名乗るようにもなっており、弾正忠家の継承者候補として信長と争う立場にあった[43]

同年8月に両者は稲生で激突するが、結果は信長の勝利に終わった(稲生の戦い[44]。信長は、末盛城などに籠もった信勝派を包囲したが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した[41]

永禄元年(1558年)、信勝が再び謀反を企てる[41]。この時、信勝を見限った柴田勝家からの密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した[41]

同年7月、信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代・織田伊勢守家(岩倉織田家)の当主・織田信賢浮野の戦いにおいて撃破した[41]。そして、翌年には、信賢の本拠地・岩倉城を陥落させた[41]

永禄2年(1559年)2月2日、信長は約500名の軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍足利義輝に謁見した[45][注釈 25]。村岡幹生によれば、この上洛の目的は、新たな尾張の統治者として幕府に認めてもらうことにあったという[45]。しかし、この目的は達成されなかったと考えられる[45]

一方、天野忠幸によれば、この上洛は尾張の問題だけによるものではなく、前年に足利義輝が正親町天皇を擁した三好長慶に対して不利な形で和睦をせざるを得なかったことによって諸大名が拠って立つ足利将軍家を頂点に立つ武家秩序が崩壊する危機感が高まり、その状況を信長自らが確認する意図もあったとされる[46][注釈 26]
桶狭間の戦い詳細は「桶狭間の戦い」および「清洲同盟」を参照

永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻した[47]駿河遠江に加えて三河国をも支配する今川氏の軍勢は、1万人とも4万5千人とも号する大軍であった[47][注釈 27]。織田軍はこれに対して防戦したがその兵力は数千人程度であった[48]。今川軍は、松平元康(後の徳川家康)が指揮を執る三河勢を先鋒として、織田軍の城砦に対する攻撃を行った[48]

信長は静寂を保っていたが、永禄3年(1560年)5月19日午後一時、幸若舞敦盛』を舞った後、出陣した[49]。攻撃を仕掛けてくるなど全く予想しておらず、油断しきっていた今川軍の陣中に信長は強襲をかけ、義元を討ち取った[50][注釈 28]桶狭間の戦い)。

桶狭間の戦いの後、今川氏は三河国の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる[注釈 29]。これを機に信長は今川氏の支配から独立した徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる[55]。両者は同盟を結んで互いに背後を固めた(いわゆる清洲同盟[55][注釈 30]

永禄6年(1563年)、美濃攻略のため本拠を小牧山城に移す[57]

永禄8年(1565年[注釈 31]、信長は犬山城の織田信清を下し、ついに尾張統一を達成した[59]。さらに、甲斐国の戦国大名・武田信玄と領国の境界を接することになったため、同盟を結ぶこととし、同年11月に信玄の四男・勝頼に対して信長の養女(龍勝寺殿)を娶らせた[60]

織田信長 銅像
(愛知県清須市、清洲公園)

善照寺砦跡
(名古屋市緑区

桶狭間古戦場伝説地
(愛知県豊明市

小牧山城小牧城下町
(愛知県小牧市

美濃斎藤氏と足利義昭

斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏(一色氏)との関係は険悪なものとなっていた[注釈 32]。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃国に出兵し勝利する(森部の戦い)。同じ頃[注釈 33]には北近江浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している[63]。その際[注釈 33]、信長は妹・お市を輿入れさせた[63]

一方、中央では、永禄8年(1565年)5月、かねてを中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏三好義継三好三人衆松永久通らが、対立を深めていた将軍・足利義輝を殺害した(永禄の変[64][注釈 34]。義輝の弟の足利義昭(一乗院覚慶、足利義秋)は、松永久秀の保護を得ており、殺害を免れた[66]。義昭は大和国(現在の奈良県)から脱出し、近江国の和田、後に同国の矢島を拠点として諸大名に上洛への協力を求めた[67]


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