織田信長
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

そして、おそらく天文21年(1552年[注釈 15]3月に父・信秀が死去したため、家督を継ぐこととなる[17][18][注釈 16][注釈 17]。信長は、家督継承を機に「上総守信長」を称するようになる(のち「上総介信長」に変更)[25][注釈 18]
家督継承から尾張統一清洲城(愛知県清須市

家督継承後の信長はすぐに困難に直面する。信秀は尾張国内に大きな勢力を有していたが、まだ若い信長にその勢力を維持する力が十分にあるとは言えなかった[28]。弾正忠家の外部には清洲城の尾張守護代・織田大和守家という対立者を抱え、弾正忠家の内部にも弟・信勝(信行)[注釈 19]などの競争者がいた[28]

一説には、「信秀が最晩年に行おうとした今川義元との和睦に反対したことなどから、信長は後継者としての立場に疑問を持たれ、信秀も信長・信勝間で家督を分割する考えに転じたのではないか」という説がある。実際に信秀の死の直後に、信長は直ちに和議を破棄している[29]。ただし、この和平の仲介には信長の舅・斎藤道三を敵視する六角定頼が関与しており、信長の立場では、道三に不利となる条件との抱き合わせになる可能性を孕むこの和議には賛同できなかったとする見方もある[30]

天文21年8月、清洲の織田大和守家は、弾正忠家との敵対姿勢を鮮明にした[28]。信長は萱津の戦いで勝利したが、これ以後も清洲方との戦いが続くこととなる[28]
正徳寺の会見

天文22年(1553年)、信長の宿老である平手政秀が自害している[31][32]。信長は嘆き悲しみ、沢彦を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った[31]。一方、おそらく同年4月に、信長は正徳寺で道三と会見した[33]。その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある[34]

天文23年(1554年)、村木城の戦いで今川勢を破った[35]

この年も、清洲との戦いは、信長に有利に展開していた[36]。同年7月12日[注釈 20]、尾張守護の斯波義統が、清洲方の武将・坂井大膳らに殺害される事件が起きる[36]。これは、斯波義統が信長方についたと思われたためであり、義統の息子の斯波義銀は信長を頼りに落ち延びた[36]

こうして、信長は、清洲の守護代家を謀反人として糾弾する大義名分を手に入れた[36]。そして、数日後には、安食の戦いで長槍を用いる信長方の軍勢が清洲方に圧勝した[36]

天文23年[注釈 21]、衰弱した清洲の守護代家は、信長とその叔父・織田信光の策略によって清洲城を奪われ、守護代・織田彦五郎[注釈 22]も自害を余儀なくされた[37]。ここに尾張守護代織田大和家は滅亡することとなる[37]

他方、守護代家打倒に力を貸した信長の叔父・信光も11月26日に死亡している[37]。この死は暗殺によるものであったと考えられる[37]。そして、信長が信光暗殺に関与していたという説もあるという[37][注釈 23]
義父・斎藤道三の死

弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いで敗死(長良川の戦い[40]。信長は救援のため、木曽川を越えて美濃の大浦まで出陣したものの、勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより信長自らが殿をしつつ退却した[注釈 24]
弟との戦い稲生原古戦場跡(名古屋市西区)詳細は「織田信行」を参照

最も有力な味方である道三を失った信長に対し、林秀貞(通勝)・林通具柴田勝家らは弟・信勝を擁立すべく挙兵する[41]。信勝は、父・信秀から末盛城や柴田勝家ら有力家臣を与えられるとともに、愛知郡内に一定の支配権を有するなど、弾正忠家において以前から強い力を有していた[42]。弘治元年には「弾正忠」を名乗るようにもなっており、弾正忠家の継承者候補として信長と争う立場にあった[43]

同年8月に両者は稲生で激突するが、結果は信長の勝利に終わった(稲生の戦い[44]。信長は、末盛城などに籠もった信勝派を包囲したが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した[41]

永禄元年(1558年)、信勝が再び謀反を企てる[41]。この時、信勝を見限った柴田勝家からの密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した[41]

同年7月、信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代・織田伊勢守家(岩倉織田家)の当主・織田信賢浮野の戦いにおいて撃破した[41]。そして、翌年には、信賢の本拠地・岩倉城を陥落させた[41]

永禄2年(1559年)2月2日、信長は約500名の軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍足利義輝に謁見した[45][注釈 25]。村岡幹生によれば、この上洛の目的は、新たな尾張の統治者として幕府に認めてもらうことにあったという[45]。しかし、この目的は達成されなかったと考えられる[45]

一方、天野忠幸によれば、この上洛は尾張の問題だけによるものではなく、前年に足利義輝が正親町天皇を擁した三好長慶に対して不利な形で和睦をせざるを得なかったことによって諸大名が拠って立つ足利将軍家を頂点に立つ武家秩序が崩壊する危機感が高まり、その状況を信長自らが確認する意図もあったとされる[46][注釈 26]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:651 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef