織田信長
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

天皇朝廷に対しては協調的な姿勢を取っていたという見方が有力となっている[注釈 9]

江戸時代には、新井白石らが信長の残虐性を強く非難したように、信長の評価は低かった[注釈 10]

とはいえ、やがて信長は勤王家として称賛されるようになり、明治時代には神として祀られている[注釈 10]第二次世界大戦後には、信長はその政策の新しさから、革新者として評価されるようになった[注釈 11]。しかし、このような革新者としての信長像には疑義が呈されつつあり、近年の歴史学界では信長の評価の見直しが進んでいる[注釈 11]
生涯

※日付は和暦による旧暦西暦表記の部分はユリウス暦とする。
尾張・美濃の平定
少年期.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}生誕の地とされる勝幡城推定復元模型(愛知県愛西市城跡(愛知県稲沢市

天文3年(1534年)5月[注釈 2]尾張国の戦国大名・織田信秀土田御前土田政久の娘)の間に嫡男[注釈 12]として誕生。幼名は吉法師(きっぽうし)[7][8]

信長の生まれた「弾正忠家」は、尾張国の下四郡の守護代であった織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行という家柄であった[9]。当時、尾張国では、守護である斯波氏の力はすでに衰えており、守護代の織田氏も分裂していたのである[9]。こうした状況下で、信長の父である信秀は、守護代・織田達勝らの支援を得て、今川氏豊から那古野城を奪う[10]。そして、信秀は尾張国内において勢力を急拡大させていた[10]

なお、信長の生誕地については那古野城古渡城勝幡城の3説に分かれる[8]。中でも那古野城説は『国史大辞典』に記されるなど定説となっていたが、山科言継の『言継卿記』の記述などを根拠に、天文3年時点では織田氏がまだ那古野城を奪っていない可能性が高まった(詳細は那古野城#歴史を参照)ことに加え、愛西市所蔵『尾州古城志』などの史料の「勝幡城で生まれた」といった記述をもとに、1992年に発表された論文をきっかけとして近年では勝幡城説が妥当と考えられている[8][11][12][13]
尾張の大うつけ最初に城主となった那古野城跡(名古屋城二之丸)

信長は、早くに信秀から那古野城を譲られ、城主となっている[注釈 13]。『信長公記』によれば、信長には奇天烈な行動が多く、周囲から「大うつけ」と呼ばれたという[15]。なお、人質となっていた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期の頃に知り合っていたとも言われるが、可能性としては否定できないものの、そのことを裏付ける史料はない[16]

天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、三郎信長と称する[17][8]

天文16年(1547年)、信長は今川方との小競り合いにおいて初陣を果たし、天文18年には尾張国支配の政務にも関わるようになった[18]
濃姫との結婚

天文17年(1548年)あるいは天文18年(1549年)頃、父・信秀と敵対していた美濃国戦国大名斎藤道三との和睦が成立すると、その証として道三の娘・濃姫と信長の間で政略結婚が交わされた[注釈 14]。天文21年(1552年)には、道三は信長に配慮し気にかけて周囲の地域の領主に宛てて信長を「若造で至らない点もあるがご容赦」をと交友を取り持つ書状を出している[20]

斎藤道三の娘と結婚したことで、信長は織田弾正忠家の継承者となる可能性が高くなった[18]。そして、おそらく天文21年(1552年[注釈 15]3月に父・信秀が死去したため、家督を継ぐこととなる[17][18][注釈 16][注釈 17]。信長は、家督継承を機に「上総守信長」を称するようになる(のち「上総介信長」に変更)[25][注釈 18]
家督継承から尾張統一清洲城(愛知県清須市

家督継承後の信長はすぐに困難に直面する。信秀は尾張国内に大きな勢力を有していたが、まだ若い信長にその勢力を維持する力が十分にあるとは言えなかった[28]。弾正忠家の外部には清洲城の尾張守護代・織田大和守家という対立者を抱え、弾正忠家の内部にも弟・信勝(信行)[注釈 19]などの競争者がいた[28]

一説には、「信秀が最晩年に行おうとした今川義元との和睦に反対したことなどから、信長は後継者としての立場に疑問を持たれ、信秀も信長・信勝間で家督を分割する考えに転じたのではないか」という説がある。実際に信秀の死の直後に、信長は直ちに和議を破棄している[29]。ただし、この和平の仲介には信長の舅・斎藤道三を敵視する六角定頼が関与しており、信長の立場では、道三に不利となる条件との抱き合わせになる可能性を孕むこの和議には賛同できなかったとする見方もある[30]

天文21年8月、清洲の織田大和守家は、弾正忠家との敵対姿勢を鮮明にした[28]。信長は萱津の戦いで勝利したが、これ以後も清洲方との戦いが続くこととなる[28]
正徳寺の会見


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:651 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef