織田信長
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さらに西美濃三人衆稲葉良通氏家直元・安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年[注釈 39]、斎藤龍興を伊勢国長島に敗走させ、美濃国平定を進めた(稲葉山城の戦い[77]。このとき、井ノ口を岐阜と改称した(『信長公記』)[注釈 40]

同年11月、印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめている[79][80]。この印判の「天下」の意味は、日本全国を指すものではなく、五畿内を意味すると考えられており[81][82]、室町幕府再興の意志を込めたものであった[82](→#信長の政権構想)。11月9日には、正親町天皇が信長を「古今無双の名将」と褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが[注釈 41]、信長は丁重に「まずもって心得存じ候(考えておきます)」と返答したのみだった[83]
二重政権織田信長軍 永楽銭(永楽通宝)旗印
織田信長の上洛戦

一方、すでに述べたとおり、三好氏による襲撃の危険が生じたことから、義昭は近江国を脱出して、越前国朝倉義景のもとに身を寄せていた[84]。しかし、本願寺との敵対という状況下では義景は上洛できず、永禄11年(1568年)7月には信長は義昭を上洛させるために、和田惟政村井貞勝不破光治島田秀満らを付けて越前国に派遣している[85]。義昭は同月13日に一乗谷を出て美濃国に向かい、25日に岐阜城下の立政寺にて信長と会見した[85]

永禄11年(1568年)9月7日、信長は足利義昭を奉戴し、上洛を開始した[86]。すでに三好義継や松永久秀らは義昭の上洛に協力し、反義昭勢力の牽制に動いていた[87]。一方、義昭・信長に対して抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の攻撃を受け、12日に本拠地の観音寺城を放棄せざるを得なくなった[86]観音寺城の戦い)。六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した[注釈 42]

更に9月25日に大津まで信長が進軍すると、大和国に遠征していた三好三人衆の軍も崩壊する。29日に山城勝龍寺城に退却した岩成友通が降伏し[90]、30日に摂津芥川山城に退却した細川昭元三好長逸が城を放棄、10月2日には篠原長房も摂津越水城を放棄し、阿波国へ落ち延びた。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。

もっとも、京都やその周辺の人々はようやく尾張・美濃を平定したばかりの信長を実力者とは見ておらず、最初のうちは義昭が自派の諸将を率いて上洛したもので、信長はその供奉の将という認識であったという[91][92]

永禄11年10月18日、足利義昭は将軍に就任した[93]。信長は、畿内の成敗を終えた後、同月26日、岐阜に戻った[93]。義昭は信長に副将軍か管領を授けようとしたが[93]、足利家の桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り、遠慮したとされる(ただし、朝廷や幕府は、文書や礼式上、信長を管領に準じて扱っていた[93][注釈 43]。また、草津大津の土地を貰った。
幕府再興.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに殿中御掟の原文があります。

永禄12年(1569年)1月5日、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の仮御所である六条本圀寺を攻撃した[95]本圀寺の変)。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた[95]。もっとも、細川藤賢明智光秀らの奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた[95]。これを機に信長は義昭の為に二条に大規模な御所・二条御所を築いた[96]

同年2月、堺が信長の使者である佐久間信盛らの要求を受ける形で矢銭に支払いに応じると、信長は以前より堺を構成する堺北荘・堺南荘にあった幕府御料所の代官を務めてきた堺の商人・今井宗久の代官職を安堵して自らの傘下に取り込むことで堺の支配を開始、翌元亀元年(1570年)4月頃には松井友閑を堺政所として派遣し、松井友閑ー今井宗久(後に津田宗及・千利休が加わる)を軸として堺の直轄地化を進めた[97]。また、(現存する文書では)同年1月以降に南近江に対して出される信長発給文書の書式が尾張・美濃と同一のものが採用され、同地域が織田領国に編入されたことが明確となった[注釈 44][98]

一方、1月14日、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『殿中御掟』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。だが、これによって義昭と信長の対立が決定的なものになったわけではなく、この時点ではまだ両者はお互いを利用し合う関係にあった。また、『殿中御掟』及び追加の条文は室町幕府の規範や先例に出典があり、「幕府再興」「天下静謐」を掲げる信長が幕府法や先例を吟味した上で制定したもので、これまでの室町将軍のあり方から外れるものではなかったとする研究もある[99]

同年3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した[100]

永禄13年(1570年)1月、甲斐・三河・遠江・伊勢・飛騨など20か国の大名や国衆に、「禁中御修理」、「武家御用」など、「天下静謐」の礼参を名目に上洛を促す触状を発した[101]。これに対し、家康をはじめ、水野信元姉小路自綱畠山昭高高政三好義継松永久秀一色義道太田垣輝延宇喜多直家ら大名や使者が入京した[101]


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