織田信長
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ a b 信長の誕生日は、ルイス・フロイスの言に基づき5月11日ないし12日であるとする説と、天野信景『塩尻』等に準拠して5月28日であるとする二つの説がある[6]
^ 天正10年9月11日柴田勝家夫妻が妙心寺で百ケ日法要を挙行したときの戒名。阿弥陀寺清玉上人命名の流れをくむもの。
^ a b 信長がその生涯をかけて築いた政治権力は、研究上、一般に「織田政権」という用語で表される[361]。この「政権」という用語が使われる背景には、信長の権力が従来の戦国大名権力とは異質な面をもち、近世の統一権力の先駆けとなったという考え方がある[361]。歴史学者の朝尾直弘は戦国大名権力との相違点を強調して「信長政権」という用語を使用しており、脇田修も一定の限界を指摘しつつも統一政権の先駆けとなった面を評価して「織田政権」という用語を使用している[361]。他方で、2000年には立花京子が、信長の個性を重視するとともに、勝者の立場を前提とする「統一政権」という言葉を避けるべきという観点から、「織田政権」ではなく「信長権力」と表現している[361]。2010年の戦国史研究会開催のシンポジウムでは、「織田権力」という呼称が使われたが、これは信長の権力と従来の戦国大名権力との共通点を強調するという意味で用いられている[361]。そのほか、藤田達生は、信長の権力の在り方について、信長の実質的な将軍就任があったと見て、「安土幕府」と位置づけている[361]。このように、信長の権力の捉え方の多様化にともない、様々な呼称が使用されている[361]。平井上総によれば、これらは観点の違いによるものであり、いずれかの呼称が適切だというものではない[361]。以降、便宜上、「織田政権」という呼称を使用することとする。
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 詳細は#生涯を参照。
^ 詳細は#信長の政権構想を参照。
^ a b c d 詳細は#人物を参照。
^ 詳細は#信長の政権構想を参照。
^ 詳細は#朝廷政策を参照。
^ a b 詳細は#「凶逆の人」から勤王家へを参照。
^ a b 詳細は#革新者か否かを参照。
^ 異母兄として織田信広がおり[7]、信広の同母弟・秀俊は系図上は信長より後に生まれたこととなっているものの、信長より先に生まれた可能性も否定しがたい[7]。これらは庶流の扱いとなる。「#兄弟」も参照
^ 那古野城譲渡の時期は、通説では天文4年とされているものの、実際にはかなり遅く、天文13年頃の可能性もある[14]
^ 井原今朝男の説によれば、道三が名跡を継承した美濃斎藤氏は室町時代の公家である甘露寺親長の妻(南向)を出し、その孫にあたる娘が斎藤氏の口入(仲介)で尾張の織田兵庫頭の室になったことで、甘露寺家を介して両家が縁戚になったことが確認され(『親長卿記』文明15年9月17日条・明応4年4月16日条・21日条)、斎藤氏と織田氏の婚姻には伝統的背景があると解される[19]
^ この信秀の死没については、その時期にいくつかの説があったものの、2011年現在は天文21年とするのが定説となっている[21][22]
^ 織田信秀の発給文書の終見は天正19年(1550年)11月朔日付の祖父江金法師(津島郷士)宛の跡職安堵状で、12月になると代わって信長が安堵状を出すようになるため(同年12月23日付笠寺如法院座主宛別当職安堵状)、天文19年末の段階で信秀が病床にあって信長への事実上の代替わりが行われていたとみられる[23]
^ 『信長公記』には、信秀の葬儀において祭壇に抹香を投げつけたという逸話が記録されている[24]
^ 信長が上総介を名乗った理由は、今川氏の代々の当主が上総介を称したことを意識したとも考えられる[26]。信長が上総守を称したのはごく短期間であるものの[27]、これについても今川氏の称する上総介よりも「上総守」が上位であると信長が考えたのではないかと推測する説もある[27]
^ 一般に「信行」として知られているが、同時代史料で確認できる名前は、「信勝」あるいは「達成」・「信成」である[28]。以降、本文では「信勝」で統一。
^ 通説では天文23年7月12日に斯波義統殺害が行われたとされてきたが、『定光寺年代記』の記述によれば、天文22年の7月12日が正しいと考えられるという[36]
^ かつての通説では弘治元年の出来事とされてきたが、天文23年が正しいと考えられる[37]
^ このとき自害した守護代・織田彦五郎については史料から実名を確定できない[38]。下村信博は、この守護代について単に「織田彦五郎」、あるいは「織田彦五郎信友」と記載している[37]。一方、柴裕之は、彦五郎について、文書に残る「大和守勝秀」と同一人物だと比定している[38]
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:647 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef