織田信長
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^ 詳細は#信長の政権構想を参照。
^ a b c d 詳細は#人物を参照。
^ 詳細は#信長の政権構想を参照。
^ 詳細は#朝廷政策を参照。
^ a b 詳細は#「凶逆の人」から勤王家へを参照。
^ a b 詳細は#革新者か否かを参照。
^ 異母兄として織田信広がおり[7]、信広の同母弟・秀俊は系図上は信長より後に生まれたこととなっているものの、信長より先に生まれた可能性も否定しがたい[7]。これらは庶流の扱いとなる。「#兄弟」も参照
^ 那古野城譲渡の時期は、通説では天文4年とされているものの、実際にはかなり遅く、天文13年頃の可能性もある[14]
^ 井原今朝男の説によれば、道三が名跡を継承した美濃斎藤氏は室町時代の公家である甘露寺親長の妻(南向)を出し、その孫にあたる娘が斎藤氏の口入(仲介)で尾張の織田兵庫頭の室になったことで、甘露寺家を介して両家が縁戚になったことが確認され(『親長卿記』文明15年9月17日条・明応4年4月16日条・21日条)、斎藤氏と織田氏の婚姻には伝統的背景があると解される[19]
^ この信秀の死没については、その時期にいくつかの説があったものの、2011年現在は天文21年とするのが定説となっている[21][22]
^ 織田信秀の発給文書の終見は天正19年(1550年)11月朔日付の祖父江金法師(津島郷士)宛の跡職安堵状で、12月になると代わって信長が安堵状を出すようになるため(同年12月23日付笠寺如法院座主宛別当職安堵状)、天文19年末の段階で信秀が病床にあって信長への事実上の代替わりが行われていたとみられる[23]
^ 『信長公記』には、信秀の葬儀において祭壇に抹香を投げつけたという逸話が記録されている[24]
^ 信長が上総介を名乗った理由は、今川氏の代々の当主が上総介を称したことを意識したとも考えられる[26]。信長が上総守を称したのはごく短期間であるものの[27]、これについても今川氏の称する上総介よりも「上総守」が上位であると信長が考えたのではないかと推測する説もある[27]
^ 一般に「信行」として知られているが、同時代史料で確認できる名前は、「信勝」あるいは「達成」・「信成」である[28]。以降、本文では「信勝」で統一。
^ 通説では天文23年7月12日に斯波義統殺害が行われたとされてきたが、『定光寺年代記』の記述によれば、天文22年の7月12日が正しいと考えられるという[36]
^ かつての通説では弘治元年の出来事とされてきたが、天文23年が正しいと考えられる[37]
^ このとき自害した守護代・織田彦五郎については史料から実名を確定できない[38]。下村信博は、この守護代について単に「織田彦五郎」、あるいは「織田彦五郎信友」と記載している[37]。一方、柴裕之は、彦五郎について、文書に残る「大和守勝秀」と同一人物だと比定している[38]
^ なお、信光と確執のあった林秀貞が信光暗殺に関与していたという説もある[39]
^ 道三残存軍が織田軍へ合流し、美濃国譲り状を末子である斎藤利治により信長へ直接渡したとされる。
^ 『信長公記』によれば斎藤義龍がこの時、信長を謀殺せんと京へ刺客を放つも、織田方の丹羽兵蔵がこれを看破したという事件があったという。
^ 天野は同年に斎藤義龍と長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛しているのも同様の趣旨とみている[46]
^ 池上裕子は、このときに今川氏が3万人以上の軍勢を動員できたとは考え難く、多く見積もっても2万5千人程度しか動員していないであろうと述べる[47]
^ この戦いにおける信長の勝因は、1980年頃までは奇襲作戦の成功にあるとされていた[51]。その後、『信長公記』の記述をもとに、信長は奇襲ではなく、正面攻撃を行ったとする藤本正行の説が広く知られるようになった[51][52]。しかし、2006年には『甲陽軍鑑』の記述をもとに黒田日出男が奇襲説を再評価し、藤本正行とのあいだで論争が行われている[51]
^ 松平氏の離反の時期については、桶狭間の戦いからしばらくは松平氏と信長の戦いが継続していたとするのが通説であった[53]。しかし、研究の進展によって、桶狭間の戦い直後に松平氏は今川氏を裏切ったとする見解も有力となっている[53]。その一方で、松平元康(徳川家康)の岡崎城帰還は信長による三河侵攻を警戒する今川氏真の方針に沿うものであったが、長尾景虎(上杉謙信)の北条領侵攻をきっかけに氏真の方針が対織田戦から対上杉戦(北条氏救援)に変化したことが松平氏離反のきっかけとなったとする説もある[54]
^ 近年、従来の清州同盟の成立とした出来事は織田・松平間の停戦・和睦協定の域を出ず、後世知られる「清州同盟」の成立は信長の娘・五徳と家康の嫡男・信康の婚姻関係が結ばれた永禄10年まで下るとする新説も出されている[56]
^ 犬山落城の時期は永禄7年とするのが通説であったが、横山住英が新出史料をもとに永禄8年のことであると論じており[58]、柴裕之もこれを支持している[59]
^ なお、信長は、道三の近親の斎藤利治を取り立て、佐藤忠能の養子として加治田城主に命じ、領地と家臣団(加治田衆)を与え、道三亡き後の斎藤家跡取りとしたとの考察がある[61]。この人物は、正式な美濃斎藤家として織田家内でも親族として重きをなす。正室の姉である濃姫養母となり二代目後継者織田信忠付き側近(重臣)ともなっている[62]
^ a b 浅井長政とお市の婚儀がいつ行われたかは正確には不明であり決定し難いが、2017年時点では永禄4年前後であるとする見解が有力である[63]
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