織田信長
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同年末に、信長と義昭は一部の敵対勢力と講和を結び、ようやく窮地を脱した[注釈 5]

元亀2年(1571年)9月、比叡山を焼き討ちする[注釈 5]。しかし、その後も苦しい情勢は続き、三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍が武田信玄に敗れた後、元亀4年(1573年)、将軍・足利義昭は信長を見限る[注釈 5]。信長は義昭と敵対することとなり、同年中には義昭を京都から追放した(槇島城の戦い[注釈 5]

将軍不在のまま中央政権を維持しなければならなくなった信長は、天下人への道を進み始める[注釈 5]。元亀から天正への改元を実現すると、天正元年(1573年)中には浅井長政・朝倉義景・三好義継を攻め、これらの諸勢力を滅ぼすことに成功した[注釈 5]。天正3年(1575年)には、長篠の戦いでの武田氏に対して勝利するとともに、右近衛大将に就任し、室町幕府に代わる新政権の構築に乗り出した[注釈 5]。翌年には安土城の築城も開始している[注釈 5]。しかし、天正5年(1577年)以降、松永久秀別所長治荒木村重らが次々と信長に叛いた[注釈 5]

天正8年(1580年)、長きにわたった石山合戦(大坂本願寺戦争)に決着をつけ、翌年には京都で大規模な馬揃え(京都御馬揃え)を行い、その勢威を誇示している[注釈 5]

天正10年(1582年)、甲州征伐を行い、武田勝頼を自害に追いやって武田氏を滅亡させ、東国の大名の多くを自身に従属させた[注釈 5]。同年には信長を太政大臣関白征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が持ち上がっている(三職推任[注釈 5]。その後、信長は長宗我部元親討伐のために四国攻めを決定し、三男信孝に出兵の準備をさせている[注釈 5]。そして、信長自身も毛利輝元毛利氏討伐のため、中国地方攻略に赴く準備を進めていた[注釈 5]。しかし、6月2日、重臣の明智光秀の謀反によって、京の本能寺で自害に追い込まれた(本能寺の変[注釈 5]

一般に、信長の性格は、極めて残虐で、また、常人とは異なる感性を持ち、家臣に対して酷薄であったと言われている[注釈 7]。一方、信長は世間の評判を非常に重視し、家臣たちの意見にも耳を傾けていたという異論も存在する[注釈 7]。なお、信長は武芸の鍛錬に励み、趣味として鷹狩り茶の湯相撲などを愛好した[注釈 7]南蛮などの異国に興味を持っていたとも言われる[注釈 7]

政策面では、信長は室町幕府将軍から「天下」を委任されるという形で自らの政権を築いた[注釈 8]天皇朝廷に対しては協調的な姿勢を取っていたという見方が有力となっている[注釈 9]

江戸時代には、新井白石らが信長の残虐性を強く非難したように、信長の評価は低かった[注釈 10]

とはいえ、やがて信長は勤王家として称賛されるようになり、明治時代には神として祀られている[注釈 10]第二次世界大戦後には、信長はその政策の新しさから、革新者として評価されるようになった[注釈 11]。しかし、このような革新者としての信長像には疑義が呈されつつあり、近年の歴史学界では信長の評価の見直しが進んでいる[注釈 11]
生涯

※日付は和暦による旧暦西暦表記の部分はユリウス暦とする。
尾張・美濃の平定
少年期.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}生誕の地とされる勝幡城推定復元模型(愛知県愛西市城跡(愛知県稲沢市

天文3年(1534年)5月[注釈 2]尾張国の戦国大名・織田信秀土田御前土田政久の娘)の間に嫡男[注釈 12]として誕生。幼名は吉法師(きっぽうし)[7][8]

信長の生まれた「弾正忠家」は、尾張国の下四郡の守護代であった織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行という家柄であった[9]。当時、尾張国では、守護である斯波氏の力はすでに衰えており、守護代の織田氏も分裂していたのである[9]。こうした状況下で、信長の父である信秀は、守護代・織田達勝らの支援を得て、今川氏豊から那古野城を奪う[10]。そして、信秀は尾張国内において勢力を急拡大させていた[10]

なお、信長の生誕地については那古野城古渡城勝幡城の3説に分かれる[8]。中でも那古野城説は『国史大辞典』に記されるなど定説となっていたが、山科言継の『言継卿記』の記述などを根拠に、天文3年時点では織田氏がまだ那古野城を奪っていない可能性が高まった(詳細は那古野城#歴史を参照)ことに加え、愛西市所蔵『尾州古城志』などの史料の「勝幡城で生まれた」といった記述をもとに、1992年に発表された論文をきっかけとして近年では勝幡城説が妥当と考えられている[8][11][12][13]
尾張の大うつけ最初に城主となった那古野城跡(名古屋城二之丸)


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