織田信長
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一方で、室町幕府の将軍・足利義輝が殺害された(永禄の政変)後に、足利将軍家足利義昭から室町幕府再興の呼びかけを受けており、信長も永禄9年(1566年)には上洛を図ろうとした[注釈 5]美濃の戦国大名・斉藤氏一色氏)との対立のためこれは実現しなかったが、永禄10年(1567年)には斎藤氏の駆逐に成功し(稲葉山城の戦い)、尾張・美濃の二カ国を領する戦国大名となった[注釈 5]。そして、改めて幕府再興を志す意を込めて、「天下布武」の印を使用した[注釈 5]

翌年10月、足利義昭とともに信長は上洛し、三好三人衆などを撃破して、室町幕府の再興を果たす[注釈 5]。信長は、室町幕府との二重政権(連合政権)を築いて、「天下」(五畿内)の静謐を実現することを目指した[注釈 6]。しかし、敵対勢力も多く、元亀元年(1570年)6月、越前朝倉義景・北近江浅井長政姉川の戦いで破ることには成功したものの、三好三人衆比叡山延暦寺石山本願寺などに追い詰められる[注釈 5]。同年末に、信長と義昭は一部の敵対勢力と講和を結び、ようやく窮地を脱した[注釈 5]

元亀2年(1571年)9月、比叡山を焼き討ちする[注釈 5]。しかし、その後も苦しい情勢は続き、三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍が武田信玄に敗れた後、元亀4年(1573年)、将軍・足利義昭は信長を見限る[注釈 5]。信長は義昭と敵対することとなり、同年中には義昭を京都から追放した(槇島城の戦い[注釈 5]

将軍不在のまま中央政権を維持しなければならなくなった信長は、天下人への道を進み始める[注釈 5]。元亀から天正への改元を実現すると、天正元年(1573年)中には浅井長政・朝倉義景・三好義継を攻め、これらの諸勢力を滅ぼすことに成功した[注釈 5]。天正3年(1575年)には、長篠の戦いでの武田氏に対して勝利するとともに、右近衛大将に就任し、室町幕府に代わる新政権の構築に乗り出した[注釈 5]。翌年には安土城の築城も開始している[注釈 5]。しかし、天正5年(1577年)以降、松永久秀別所長治荒木村重らが次々と信長に叛いた[注釈 5]

天正8年(1580年)、長きにわたった石山合戦(大坂本願寺戦争)に決着をつけ、翌年には京都で大規模な馬揃え(京都御馬揃え)を行い、その勢威を誇示している[注釈 5]

天正10年(1582年)、甲州征伐を行い、武田勝頼を自害に追いやって武田氏を滅亡させ、東国の大名の多くを自身に従属させた[注釈 5]。同年には信長を太政大臣関白征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が持ち上がっている(三職推任[注釈 5]。その後、信長は長宗我部元親討伐のために四国攻めを決定し、三男信孝に出兵の準備をさせている[注釈 5]。そして、信長自身も毛利輝元毛利氏討伐のため、中国地方攻略に赴く準備を進めていた[注釈 5]。しかし、6月2日、重臣の明智光秀の謀反によって、京の本能寺で自害に追い込まれた(本能寺の変[注釈 5]

一般に、信長の性格は、極めて残虐で、また、常人とは異なる感性を持ち、家臣に対して酷薄であったと言われている[注釈 7]。一方、信長は世間の評判を非常に重視し、家臣たちの意見にも耳を傾けていたという異論も存在する[注釈 7]。なお、信長は武芸の鍛錬に励み、趣味として鷹狩り茶の湯相撲などを愛好した[注釈 7]南蛮などの異国に興味を持っていたとも言われる[注釈 7]

政策面では、信長は室町幕府将軍から「天下」を委任されるという形で自らの政権を築いた[注釈 8]天皇朝廷に対しては協調的な姿勢を取っていたという見方が有力となっている[注釈 9]


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