織田信行
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

注釈^ a b寛政重修諸家譜』や『享禄以来年代記』、『織田家雑録』などでは、信行暗殺を弘治3年(1557年)の出来事とするが[5]、一方で『信長公記』[注釈 27]は永禄元年の出来事であるとする[5]。この点、『定光寺年代記』には信行(信勝)が永禄元年(1558年)3月に龍泉寺で築城を開始したとの記載もあり[47]、谷口克広によれば、「武蔵守信成」(すなわち信行)が弘治3年11月25日付けで判物を発給[注釈 6]していることから、殺害の日付は永禄元年(1558年)11月2日が正しいと考えられるという[5]。下村信博[48]、柴裕之[49]、池上裕子[50]といった研究者のいずれもが永禄元年説を採用しており、今日では同説が最有力である[51]
^ 徳島大学附属図書館蔵『蜂須賀家家臣成立書并系図』内にある、後裔の津田新五左衛門信實によって書かれた系図には、信行の欄に「久右衛門 幼名勘十郎 後武蔵守」と記されており、勘十郎を幼名としている。
^ 南山大学名誉教授。
^ a b 天文20年9月20付織田信勝判物「密蔵院文書」(『愛知県史 資料編10』史料番号1796号)。
^ 天文23年11月22付織田達成判物写(『名古屋叢書 続編』所収の『尾張徇行記』に文書の写しが残る[14])。なお、写では、「十」の字には「重」が当てられており「勘重郎」となっているが、「勘十郎」と相違ないと考えられる[15]
^ a b c 弘治3年11月25日付織田信成判物「加藤文書」(『愛知県史 資料編10』史料番号2077号)。
^ a b 兄弟のうち、江戸時代の諸系図類によれば、織田安房守(秀俊、信時)は、信長・信行の弟となっている[21]。しかし、『信長公記』の記述によれば、安房守は信秀の次男となり、信長・信行の兄ということになる[21]
^ ただし、信行の弟である織田信包も土田御前所生であると推測される[3]
^ 4月10日付織田信長判物「加藤家文書」(『愛知県史 資料編10』史料番号1828号)。
^ ただし、村岡幹生は、右筆が同一であることについて否定的な見解を述べている[26]
^ 信秀の死去の時期についてはいくつかの説があったが、2011年現在は、天文21年3月であることが定説となっている[24][26]
^信長公記[broken anchor]』首巻9、pp. 23-25.
^信長公記[broken anchor]』首巻9、pp. 23-25.

次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:111 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef