織田信行
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^ 徳島大学附属図書館蔵『蜂須賀家家臣成立書并系図』内にある、後裔の津田新五左衛門信實によって書かれた系図には、信行の欄に「久右衛門 幼名勘十郎 後武蔵守」と記されており、勘十郎を幼名としている。
^ 南山大学名誉教授。
^ a b 天文20年9月20付織田信勝判物「密蔵院文書」(『愛知県史 資料編10』史料番号1796号)。
^ 天文23年11月22付織田達成判物写(『名古屋叢書 続編』所収の『尾張徇行記』に文書の写しが残る[14])。なお、写では、「十」の字には「重」が当てられており「勘重郎」となっているが、「勘十郎」と相違ないと考えられる[15]
^ a b c 弘治3年11月25日付織田信成判物「加藤文書」(『愛知県史 資料編10』史料番号2077号)。
^ a b 兄弟のうち、江戸時代の諸系図類によれば、織田安房守(秀俊、信時)は、信長・信行の弟となっている[21]。しかし、『信長公記』の記述によれば、安房守は信秀の次男となり、信長・信行の兄ということになる[21]
^ ただし、信行の弟である織田信包も土田御前所生であると推測される[3]
^ 4月10日付織田信長判物「加藤家文書」(『愛知県史 資料編10』史料番号1828号)。
^ ただし、村岡幹生は、右筆が同一であることについて否定的な見解を述べている[26]
^ 信秀の死去の時期についてはいくつかの説があったが、2011年現在は、天文21年3月であることが定説となっている[24][26]
^信長公記』首巻9、pp. 23-25.
^信長公記』首巻9、pp. 23-25.
^ 村岡幹生は、むしろ弾正忠家の主流を継承したのは信行だったのではないかと述べている[29]
^ 村岡幹生は、『信長公記』首巻の「末盛の城勘十郎公へまいり、柴田権六・佐久間次右衛門、此外歴々相添へお譲りなり」という記述について、信長が末森城の信勝に家督を譲ったという意味だと解する[28]。しかし、谷口克広によれば、当該の記述で信長が譲ったのは家督ではなく「末森の城」である[10]
^信長公記』首巻15、pp. 34-35
^ ただし、これを柴田勝家の単独行動とみなし、弾正忠家はすでに統一した対応がとれていなかったという見解もある[31]
^ 天文22年10月付織田信勝判物「加藤影実氏所蔵文書」(『愛知県史 資料編10』史料番号1883号)。
^ 織田達定織田達勝、織田達広。
^ 「達」の字については、織田大和守の通字であると村岡や2011年の柴は述べているが[32][11]、2020年の柴は織田達定織田達勝兄弟が斯波義達から偏諱を受けた字であると述べている[34]
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