織田信行
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信行の人物像について詳細は伝わらないが、信秀の葬儀において、信長が奇矯な行動をとった一方で、信行は礼儀に則った振舞いをしたという逸話がよく知られている[10]。また、白山を信仰していたとされ[11]鷹狩の名手であったという[12]
名前陽明文庫本『信長公記』。

この人物は、基本史料の一つである『信長公記』においては、一貫して「勘十郎」という通称で記されている[12]。勘十郎なる人物の実名は、江戸時代の『織田系図』[13]などの系図類では「信行」と記載され[12]、一般的にも「信行」として知られる[5]。しかし、信頼性の高い同時代史料では、「信行」という名を確認することはできない[8]

昭和44年(1969年)、新井喜久夫[注釈 3]は、花押や通称、文書内容を検討して、「勘十郎信勝」[注釈 4]として一次史料に残る人物が、天文23年(1554年)に「勘十郎達成」[注釈 5]として文書に見える人物と同一人物であると明らかにした[12]。さらに、達成について、弘治3年(1557年)に「武蔵守信成」[注釈 6]として文書を発給している人物とも同一人物であると比定した。そしてこの人物が後に「信行」と改名したと主張している[12]。「勘十郎」=「信勝」=「達成」=「信成」であることは、その後の研究者も踏襲している[5][8][16][17]

つまり、「勘十郎」について一次史料で確認できる実名は、「信勝」「達成」「信成」の3通りのみである[5]。なお、勘十郎が実名を「信勝」から「達成」に、その後に「信成」と変更した背景には、尾張守護代・織田大和守家の存在や稲生の戦いにおける敗北といった理由があったとされる(後述)[16]

このような事情から、近年の論文や書籍では、「信行」ではなく、「信勝」として表記されることが多い。例えば、谷口克広の『織田信長家臣人名事典 第2版』は項目名に「織田信勝」を[5]、岡田正人の『織田信長総合事典』は「織田信勝(信行)」を[18]それぞれ採用している。このほか、池上裕子[17]や村岡幹生[19]も「信勝」という表記を使用している。

なお、すでに述べたとおり、通称として勘十郎を名乗り、官途名として武蔵守を使用しているが、これ以外に「弾正忠」を称したとも考えられている[9][11][20]

このように信行の名が実際に使われていたか不確かであるが、この記事では便宜上、以後も「信行」で統一する。
生涯
「織田信勝」の登場父・信秀の居城であり、後に信行の居城ともなった末森城跡。現在は城山八幡宮となっている。

織田信秀の三男または四男として生まれており[注釈 7]、織田信長はすぐ上の兄にあたる[5]。母も同じ信秀の正室(継室)土田御前で[5]、信秀の嫡出子は2人だけだった[18][注釈 8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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