織田信秀
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信秀は頼芸を支援し、また同様に追放された先々代の守護の子の土岐頼純を庇護下に置く越前の朝倉孝景と連携し、美濃に出兵して斎藤道三と戦い、一時は大垣城を奪った[14]。また『信長公記』によると、同年の第一次小豆坂の戦いでも今川義元を相手に勝利を収め、西三河の権益を保持したという[注釈 6]

こうして信秀は主家である大和守家への臣従関係は保ちつつ、実質的な地位や権威は大和守家やその主君である尾張守護斯波氏をも上回り、弟の織田信康織田信光ら一門、家臣を尾張の要所に配置し、尾張国内の他勢力を圧倒する戦国大名の地位を築いていった。しかし信秀は終末まで守護代奉行であり、実質上は尾張を代表する戦国大名として斎藤・松平・今川ら他国大名と戦い続けたものの、形式的主君として守護代家・守護家を仰ぎ続けた。尾張国内の大和守家や他の三奉行、犬山の織田信清などと何度も敵対し争ったり、反乱されたりしているのに、最後まで徹底して粛清したり叩こうとはせず、旧来の権威や秩序を重んじる古さがあったと指摘される。それらを抱えたまま国外の敵と戦うことには限界があり、その併呑や排除は信長の代を待つことになる[7]
勢力の陰りとその死萬松寺の墓所

天文13年(1544年)、斎藤道三の居城・稲葉山城の城下まで攻め込んだが、道三の反撃を受けて大敗する(加納口の戦い)。

天文16年(1547年)9月、岡崎城を攻め落とし、城主の松平広忠を降伏させる[16]。広忠の嫡男・竹千代(後の徳川家康)が織田家の人質になったのもこの頃の出来事と考えられている[17]

天文17年(1548年)、道三が広忠に働きかけ、斎藤氏・今川氏と結んだ広忠が再度挙兵(『武家聞伝記』)。道三や今川義元は信秀に対抗するため、工作活動を行っていたと考えられている[17]。さらに犬山城主・織田信清(弟・信康の子)と楽田城主・織田寛貞が謀反を起こすが、これを鎮圧して従属させる。また、道三による大垣城攻撃を受けたため救援に向かうがその最中、織田達勝から大和守家を継いだ織田信友も古渡城に攻め寄せたため、帰還して信友と対峙する。この年、信秀は道三と和睦。条件として信秀の嫡子・信長と、道三の娘・帰蝶(濃姫)との婚姻が決まる。

同年3月19日第2次小豆坂の戦いにおいて、太原雪斎の指揮する今川・松平連合軍に敗北。信秀は今川氏の勢力に押され、大和守家とも対立し、苦境に立たされる。

天文18年2月24日1549年3月23日)、帰蝶が織田家に輿入れ[18]。大垣城は道三の支配下に戻り、また同年には大和守家の信友とも和解した[19]

同年3月、信秀の勢力を三河より駆逐せんとする今川氏が、織田方の西三河支配の牙城であった安祥城に対し、太原雪斎を将とする約1万の軍勢を送る。城主である信秀の庶子・信広の奮戦により、一度はその攻撃を退けたものの、今川氏は同年9月に再び出兵。平手政秀が援軍として安祥城へ送られたが、11月に安祥城は陥落した(第三次安城合戦)。信広が今川氏に捕縛されたことで、人質としていた松平竹千代との交換も行われ、西三河における織田方の勢力は総崩れの様相を呈した[20]。信秀はこの頃から病に冒され臥せるようになり、周囲や関係者にも病中と知られるようになる[注釈 7]。11月には信長が代行として「執達」し、「藤原信長」名で熱田に制札を出しており、これが信長の初見文書となっている[22]

天文19年(1550年)8月、今川氏の軍勢により、知多郡水野信元が降伏。翌天文20年(1551年)12月には愛知郡鳴海城山口教継が今川方となり、教継の調略により織田方の勢力が削がれるという困難の続く中で、天文21年3月3日(1552年3月27日)、信秀は末森城で死去した[2][注釈 2]。享年42。家督は嫡男の信長が継いだ。葬儀は萬松寺で行われ、僧侶300人を参集させた壮大なものだった[23]。しかし、信秀の死は3年間伏せられていたという説もある。

なお、没年については天文18年(1549年)説[24][注釈 8][注釈 9]、天文20年(1551年)説[25][注釈 11]、天文21年(1552年)3月9日説[26][注釈 12]もあるが[24]思文閣の古書資料目録229号にある武将花押・朱印貼交帖には、備後守信秀名の天文20年4月24日付の判物が残されている[27]
人物.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに名古屋合戦記の原文があります。

智勇に優れた武将であり、守護代二家のうちの大和守家下の庶流という低い地位から尾張各地、そして一時は西三河まで支配し尾張国を代表する勢力となり、信長の飛躍の基盤を作った[28]

何度かの苦戦や困難にも負けず戦い抜き戦国大名化し、天文13年美濃攻めの大敗北直後にも堂々と勅使を迎えた。苦戦や敗戦にめげない精神は、信長の第一次信長包囲網の元亀年間の最大の苦闘やその後の包囲網、苦戦に負けなかった強靭な人格に特に継承されている[29]

父・信定の築いた勝幡城を継承し、近辺の港と門前町の商業都市津島の権益を高め、後に同様の地の熱田を支配し、経済力を蓄えて、当時の経済流通拠点を支配下に組み込み、それによって商業の活性化を図るなどの先見性を持っていた。これも信長に継承されている[30]

那古野城の奪取にあたっては、信秀はあらかじめ若年の城主・今川氏豊に友好的に接近、連歌狂だった氏豊の歌仲間として親しくなり油断させ、那古野城に何日も泊まるようになる。その後、宿泊時に仮病の重体で人を呼び寄せ、城の内外で戦いを起こし城下に放火し侵攻させていた軍勢を城内に入れ乗っ取るという奇策で攻略したと『名古屋合戦記』[31]に記されている。これはそのまま史実ではなくても、那古野城が突然、信秀のものになったのは事実であり、何かしらの謀略で奪い取ったと見られ、武将としての性格を示して有名である。なお、同書には史実とは年数の合わない享禄5年(1532年)春のこととされている[32]

「大うつけ」と呼ばれ長老衆や周囲の悪評の高い信長に那古野城を譲り、その後も一貫して自らの後継者に据え続けており、親子の間には信頼関係があったと思われる[33]

居城を勝幡城・那古野城・古渡城・末森城と、戦略に合わせ、次々と移転したが、他の戦国大名の武田氏朝倉氏後北条氏毛利氏上杉謙信などは生涯居城を動かさず、信秀は特異であるがその勢力拡大への効果は大きい。この居城移転戦略も信長へと引き継がれた[11]

子福者であり、40代前半で死去するまでに正室と多くの側室との間に12人の息子と10人以上の娘をもうけた[34]

籠城せず必ず打って出る戦闘方法、多数の兄弟姉妹・娘息子を活かした縁組戦略などは、信長に全国に規模を広げて拡大継承された。その一方で、農村農民や農地政策の不徹底さも同様となった[35]

天文12年(1543年)、朝廷に内裏修理料として4000貫文を献上した朝廷重視の姿勢は信長にも受け継がれた[36]


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