『京都坊目誌』によると、信長と村井貞勝の菩提を弔うために見性寺を創建した開基の村井重勝は、信長の「庶子[12]」で「貞勝に養育された者」であるという。諸系図でこれに該当する者はおらず、前述の信正のことを指したものであろうと考えられる。
天正10年(1582年)の本能寺の変に際しては、前田玄以と共に二条新御所にあった、とされる[13]。
天正16年(1588年)6月、信長および信忠ほかの本能寺の変で討ち死にした家臣らの七回忌の法要を見性寺で営んだ。関白豊臣秀吉もこの法要に参詣し、見性寺には寺領が与えられ、年貢も免除されることになった。後年、この処置は徳川家康の時代にも引き継がれ、寺領も安堵された。
正保4年11月25日、94歳で没した[3]。京都左京区正往寺町の見性寺には重勝とその母の墓があり、『京都坊目誌』の項はその由来を記したものである。 『系図纂要』によると、長子は信衡で、母は織田信広(信長の庶兄)の娘[14]。次子は的寿(的壽)で、母は村井貞勝の娘。信衡は天正2年(1574年) に古渡城で生まれ、幼名は勝若丸。通称は三郎四郎。帯刀大夫。聚楽第で豊臣秀次に仕えたが、文禄4年(1595年)に出家して松雲軒と号し、寛文3年に90歳で没したという。信衡の子に信直
子孫
他方で『地下家伝』によると、天正年間に院雑色となった際に、重勝は平姓織田氏から原田姓に改めたとあり、朝廷の院雑色を務めた地下家の(橘姓)原田家も、村井重勝(信正)の子孫を称する。重勝の子に重次、重次の子に正重、正重の子を直張としているが、それぞれ重勝は信正と、重次は信衡と、正重は信直と、生年月日が同じに記されており、同一人物の別名のようである[15]。
織田信正を描いた作品
壬生一郎『信長の庶子』(2019年 - 、既刊4巻)イラスト:土田健太 - 織田信正を主人公とした架空戦記。
脚注[脚注の使い方]^ a b c d 『系図纂要』や『地下家伝』以外には記されていない。江戸幕府の公的な系譜集『寛政重修諸家譜』にも記載されておらず、信長の子の「織田信正」なる人物は同時代の史料には一切登場しないため、実在については確証がない。また一族が異様に長命とされていることにも、疑問符が付き、系図で都合良く辻褄を合わせたようにも見える。
^ a b c d 『系図纂要』による。
^ a b 三上 1937, p. 1098.
^ a b c d e ただし、これらの叙任の記述は、朝廷、公家のどの記録にも残っておらず、事実であるとは確認できていない。
^ 信正は庶長子のため、数に含めず。
^ 亀千代。僧となり寺を継いで、見性寺2世。母は村井春長軒貞昌の女と書かれているが、春長軒であるというならば、貞勝であろう。
^ 三上 1937, p.1098
^ ただしこれらの情報は江戸時代のもので共に信憑性が高いとは言い難い。伝承や墓の存在などは、信長と貞勝の両方に縁がある共通の遺族がいたというぐらいのことしか示していない。
^ 織田信忠の生年は通説ならば弘治3年(1557年)。
^ この叙任は、同年に伊勢長島攻めで討ち死にした舅の織田信広(大隅守)の家を継いだことを示すものらしい。信広には世継ぎがおらず、その娘を妻に迎えているので、これが正室ならば婿養子とも考えられるが、後述の村井重勝説とは矛盾する。
^ 前年に織田信孝が侍従に叙任されたことを模したもののようだが、この叙任の記録もない。
^ 『京都坊目誌』には庶長子であるとは明記されていない。
^ ただし玄以は実際には岐阜城にいて三法師を連れて清洲城に逃れていて、事実と異なる。これは玄以が三法師を抱いて御所を脱出したとする江戸時代に信じられていた俗伝に基づいて話が作られたためと考えられ、辻褄が合わない。
^ 恭姫と書かれている。
^ 重勝、重次、正重の3代だけが90歳前後で、以後は60歳以下の没年と、突出した長命は系図を繋げたためと考えられる。
参考文献
“『系図纂要』”. 東京大学史料編纂所. 2016年6月9日閲覧。
三上景文『国立国会図書館デジタルコレクション 地下家伝 第14-20巻』日本古典全集刊行会〈日本古典全集 ; 第6期〉、1937年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207813/201 国立国会図書館デジタルコレクション。
増補京都叢書刊行会 編「京都坊目誌 上 上京之部 巻之16-28(碓井小三郎編)」『亰都叢書』 16巻、増補京都叢書刊行会、1935年。
関連項目
村井貞勝
塙直政