織田信正
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^ a b c d e ただし、これらの叙任の記述は、朝廷、公家のどの記録にも残っておらず、事実であるとは確認できていない。
^ 信正は庶長子のため、数に含めず。
^ 亀千代。僧となり寺を継いで、見性寺2世。母は村井春長軒貞昌の女と書かれているが、春長軒であるというならば、貞勝であろう。
^ 三上 1937, p.1098
^ ただしこれらの情報は江戸時代のもので共に信憑性が高いとは言い難い。伝承や墓の存在などは、信長と貞勝の両方に縁がある共通の遺族がいたというぐらいのことしか示していない。
^ 織田信忠の生年は通説ならば弘治3年(1557年)。
^ この叙任は、同年に伊勢長島攻めで討ち死にした舅の織田信広(大隅守)の家を継いだことを示すものらしい。信広には世継ぎがおらず、その娘を妻に迎えているので、これが正室ならば婿養子とも考えられるが、後述の村井重勝説とは矛盾する。
^ 前年に織田信孝が侍従に叙任されたことを模したもののようだが、この叙任の記録もない。
^ 『京都坊目誌』には庶長子であるとは明記されていない。
^ ただし玄以は実際には岐阜城にいて三法師を連れて清洲城に逃れていて、事実と異なる。これは玄以が三法師を抱いて御所を脱出したとする江戸時代に信じられていた俗伝に基づいて話が作られたためと考えられ、辻褄が合わない。
^ 恭姫と書かれている。
^ 重勝、重次、正重の3代だけが90歳前後で、以後は60歳以下の没年と、突出した長命は系図を繋げたためと考えられる。
参考文献
“『系図纂要』”. 東京大学史料編纂所. 2016年6月9日閲覧。
三上景文『国立国会図書館デジタルコレクション 地下家伝 第14-20巻』日本古典全集刊行会〈日本古典全集 ; 第6期〉、1937年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207813/201 国立国会図書館デジタルコレクション。
増補京都叢書刊行会 編「京都坊目誌 上 上京之部 巻之16-28(碓井小三郎編)」『亰都叢書』 16巻、増補京都叢書刊行会、1935年。
関連項目
村井貞勝
塙直政
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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