荒尾善次の娘(善応院)との間に一女があり[8]、信時の死後に池田恒興の養女となって飯尾敏成に嫁し、敏成戦死の後に下間頼龍に再嫁して、下間頼広(後の池田重利)を産んだ[2][9][10]。このため、播磨新宮藩主池田家は信時の女系子孫にあたる。
脚注
注釈^ 弘治2年2月付け雲興寺宛て織田安房守秀俊の禁制がある(愛知県史料叢刊「織田秀俊禁制」)。
^ 信長に替わって那古野城主となった信光は、その後不慮の死を遂げていた。
^ 事件後に角田が処罰されることはなく、林秀貞の庇護を受けた形跡があることから、暗殺事件への関与については不明としながらも、信時は信長にとって邪魔な存在だったことは確かだという指摘[5]や、別の背景が絡んでいると想像する見解がある[6]。
出典^ “『系図纂要』