『織田系図』や『寛政重修諸家譜』[2]等によれば、織田信秀の五男または六男とされているが、前述のように『信長公記』では弘治年間からの活動が認められ、前記系図が一女の父としながら天文12年(1543年)生まれの信包より下に置いているのは明白な矛盾と考えられる[7]。同じく『信長公記』に「織田三郎五郎(信広)殿と申すは、信長公の御腹かはりの御舎兄なり。其弟に安房守(信時)と申候て、利口なる人あり」[4]と、信長の弟とは書かず信長の異母兄信広の弟としていることから、信広と同母で信長の弟ではなかった、すなわち信長の異母兄だったとも推測される[7]。 荒尾善次の娘(善応院)との間に一女があり[8]、信時の死後に池田恒興の養女となって飯尾敏成に嫁し、敏成戦死の後に下間頼龍に再嫁して、下間頼広(後の池田重利)を産んだ[2][9][10]。このため、播磨新宮藩主池田家は信時の女系子孫にあたる。
妻子・子孫
脚注
注釈^ 弘治2年2月付け雲興寺宛て織田安房守秀俊の禁制がある(愛知県史料叢刊「織田秀俊禁制」)。
^ 信長に替わって那古野城主となった信光は、その後不慮の死を遂げていた。
^ 事件後に角田が処罰されることはなく、林秀貞の庇護を受けた形跡があることから、暗殺事件への関与については不明としながらも、信時は信長にとって邪魔な存在だったことは確かだという指摘[5]や、別の背景が絡んでいると想像する見解がある[6]。
出典^ “『系図纂要』
^ a b c “『寛政重修諸家譜』巻第四百八十八