織田信忠
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^ 信雄が菩提を弔うために命名したもの。総見寺に同名の塔頭を建立した。
^ 『「尚久。寒天の分ご苦労の段とお察しする。(中略)尚これから加勢のため毛利河内守につけて森勝蔵・坂井越中守・佐藤左衛門の諸将を派遣する。いずれ重ねてお知らせする。よい注進を待っている。天正六年十月十二日 斎藤新五殿 信忠印」[7]
^ 『惟任謀反記』では「信忠一番に切って出て、面に進む兵十七、八人これを切り伏す」「信忠御覧じて、真中に切つて入り頃、稽古仕給ふ兵法の古流、当流秘伝の術、英傑の一太刀の奥義を尽くし、切つて廻り、薙ぎ伏す」とある
^ 織田長益前田玄以らが脱出しているのを見てもわかるように、光秀は京都を封鎖していなかった。
^ なお、不義があった場合、織田家において信忠を嫡男とするとは考えにくい。
^ 織田信忠 秋田城介に関する官符(壬生家四巻之日記)太政官符出羽國司應令介正五位下平朝臣信忠勤行秋田城務事右正二位行權大納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣實枝宣奉 勅宜差遣彼城務勤行警固若觸防禦有所謂者隨状處分寄事鎭街勿簡國務者國宜承知依宣行之符到奉行天正三年十一月七日 修理東大寺大佛長官主殿頭兼左大史小槻宿禰朝芳奉左中辨藤原朝臣
訓読文
太政官符す出羽国司応(まさ)に介正五位下平朝臣信忠(出羽介織田信忠 19歳)秋田城務を勤行(ごんぎゃう)せしむべき事、右、正二位行権大納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣實枝(三条西実枝(旧字体:實枝))宣(の)る、勅(みことのり 正親町天皇)を奉(うけたまは)るに、宜しく彼(か)の城務に差し遣はし、警固を勤行すべし、若(も)し防禦に触(あた)り、請ふ所有らば、状に随(したが)ひ処分せよ、事に寄せ街(みち)を鎮め国務を簡(あなど)ること勿(なか)れ者(てへり)、国宜しく承知し宣に依り之(これ)を行なふべし、符到(いた)らば奉(うけたまは)り行なへ、天正3年(1575年)11月7日 修理東大寺大佛長官主殿頭兼左大史小槻宿禰朝芳(壬生朝芳)奉(うけたまは)る、左中弁藤原朝臣(日野輝資

出典^ 塩川氏以外、諸説があって出自は定かではない
^ 寛政譜 1923, pp. 556, 558.
^ a b c d e 岐阜市 1981, p. 7.
^ 天正5年(1577年)6月付け
^ a b c d e 横山 2012, p. 33-35,73-75
^ a b c d e f g h i 寛政譜 1923, p. 556.
^ 富加町史編集委員会 1980, pp. 231?232.
^ 柴裕之 『織田信長 戦国時代の「正義」を貫く』 平凡社〈中世から近世へ〉、2020年12月。ISBN 978-4-582-47747-4 P235-236.
^ a b c d e f 歴史群像編集部 2007, p. 166-171
^ 富加町史編集委員会 1975, pp. 723?724.
^士林泝』3
^ 和田裕弘『織田信忠』(中公新書)、第4章1の「官位」。
^ 奥村徹也 著「細川幽斎・忠興と秀吉と」、米原正義 編『細川幽斎・忠興のすべて』新人物往来社、2000年、79頁。 

参考文献

岐阜市 編『岐阜市史』《通史編 近世》岐阜市、1981年3月31日。NDLJP:9570455。 (要登録)

歴史群像編集部 編『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』学研、2007年。 

横山住雄『織田信長の尾張時代』戒光祥出版〈中世武士選書 第10巻〉、2012年。 

和田裕弘『織田信長の家臣団?派閥と人間関係?』中央公論新社中公新書〉、2017年。 

富加町史編集委員会 編『富加町史』 上、1975年。 ASIN B000J9E7PG

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