織田信忠
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同年2月、雑賀攻めで中野城を落とし、3月には鈴木重秀(雑賀孫一)らを降す。8月には再び反逆した松永久秀討伐の総大将となり、明智光秀を先陣に羽柴秀吉ら諸将を指揮して、松永久秀・久通父子が篭城する大和信貴山城を落とした(信貴山城の戦い)。その功績により10月15日には従三位左近衛権中将に叙任される。この頃より、織田信忠は父・信長に代わり軍団の総帥として諸将の指揮を執るようになる。

12月28日には信長が持っていた茶道具のうちから8種類を譲られ、翌29日にはさらに3種類を渡されている。

天正6年(1578年)、毛利輝元が10万以上の大軍を動員し、自らは備中高松城に本陣を置き、吉川元春小早川隆景宇喜多忠家村上水軍の6万1,000人を播磨国に展開させ上月城を奪還すべく包囲した。信長も上月城救援のため、信忠を総大将に明智光秀・丹羽長秀滝川一益ら諸将を援軍に出した。三木城を包囲中の羽柴秀吉も信忠の指揮下に入り、総勢7万2,000人の織田軍が播磨に展開する。しかし、膠着状態におちいると、信長は撤退を指示し、三木城の攻略に専念させる。篭城する尼子勝久主従は降伏し、上月城は落城した(上月城の戦い)。

同年10月4日、重臣の斎藤利治が越中国月岡野の戦い神保長住への援軍総大将として信長より派遣され、斉藤氏の加治田衆を筆頭に、信忠付の美濃衆・尾張衆も援軍に送っている。織田信忠は斎藤利治に対して「ご苦労の段とお察しする」と書状を送っている[注釈 3]

また、同年から翌天正7年(1579年)にかけて、摂津国で勃発した荒木村重の謀反(有岡城の戦い)の鎮圧にも出陣した。

天正8年(1580年)、尾張南部を統括していた佐久間信盛西美濃三人衆のひとり安藤守就が追放され、美濃・尾張の2か国における信忠の支配領域が広がった。
甲州征伐

天正10年(1582年)、織田信忠は織田軍の総大将として美濃・尾張の軍勢5万を率い、徳川家康北条氏政と共に武田領へと進攻を開始する(甲州征伐)。信忠は河尻秀隆滝川一益の両将を軍監とし、伊那方面から進軍して、信濃南部の武田方の拠点である飯田城高遠城を次々と攻略する。高遠城攻略においては自ら搦手口で陣頭に立って堀際に押し寄せ、柵を破り塀の上に登って配下に下知している(『信長公記』巻15)。

信忠の進撃は早く、武田勝頼は態勢を立て直すことができずに諏訪から退却し、新府城を焼き捨てて逃亡する。その後、織田信忠は追撃の手を休めず、信長が武田領に入る前に、勝頼・信勝父子を天目山の戦いにて自害に追い込み、武田氏を滅亡させた。

3月26日、甲府に入城した信長は、信忠の戦功を大いに賞賛し、梨地蒔の腰物を与え、「天下の儀も御与奪」との意志を表明する。この時、織田信忠は辞退したものの、信長からすれば織田氏家督のみならず天下人の地位も信忠に継承させることを内外に宣言したものであった[8]

論功行賞により、寄騎部将の河尻秀隆が甲斐国(穴山梅雪領を除く)と信濃国諏訪郡、森長可が信濃国高井・水内・更科・埴科郡、毛利長秀が信濃国伊那郡を与えられたことから、美濃・尾張・甲斐・信濃の四ヶ国に影響力を及ぼすこととなった。
本能寺の変二条良基邸・二条殿址。京都市中京区

天正10年(1582年)6月2日、織田信忠は父・信長と共に備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍に向かうべく、京都妙覚寺(この寺には信長もたびたび滞在していた)に滞在していた。この時、本能寺の変が発生した。

信忠は信長の宿所である本能寺を明智光秀が強襲した事を知ると、本能寺へ救援に向かうが、信長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく異母弟の津田源三郎(織田源三郎信房)、京都所司代村井貞勝や重臣斎藤利治ら側近と共に儲君皇太子)・誠仁親王の居宅である二条新御所御所の一つ)に移動した。信忠は誠仁親王を脱出させると、手回りのわずかな軍兵とともにそのままそこで籠城した。

しかし、明智軍の伊勢貞興が攻め寄せると、織田信忠は敵兵の数の多さに勝ち目がないと思い、その場で自刃した。享年26[9]

この時、介錯は鎌田新介が務め、信忠は「二条御所の縁の板を剥がして自らの遺骸を隠すように」と命じたという[9]

京洛中にいたが、本能寺に入るには間に合わず、二条新御所に駆け付けた福富秀勝菅屋長頼猪子兵助団忠正らが斎藤利治を中心に明智勢と戦うが、信忠自害後に斎藤利治が「今は誰が為に惜しむべき命ぞや」と刺し違えて討死(忠死)した[10]

その後、父同様、信忠のその首が明智軍に発見されることはなかった。

二条新御所での籠城時の具体的な戦闘内容について、『惟任謀反記』や『蓮成院記録』によると自ら剣をふるい敵の兵を斬ったとされる[注釈 4]。この時、信忠の小姓に下方弥三郎という若者がおり、彼は奮戦して左足を負傷し脇腹をやられて腸がはみ出していた。その姿を見た信忠は「勇鋭と言うべし。今生で恩賞を与える事はかなわぬが、願わくば来世において授けようぞ」と述べた。


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