織田信忠
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天正5年(1577年)1月5日、正四位下[5][4]。同年2月、雑賀攻めで中野城を落とし、3月には鈴木重秀(雑賀孫一)らを降す。8月には再び反逆した松永久秀討伐の総大将となり、明智光秀を先陣に羽柴秀吉ら諸将を指揮して、松永久秀・久通父子が篭城する大和信貴山城を落とした(信貴山城の戦い)。同年10月15日には従三位左中将に叙任される[5]。この頃より、織田信忠は父・信長に代わり軍団の総帥として諸将の指揮を執るようになる。

12月28日には信長が持っていた茶道具のうちから8種類を譲られ、翌29日にはさらに3種類を渡されている。

天正6年(1578年)、毛利輝元が10万以上の大軍を動員し、自らは備中高松城に本陣を置き、吉川元春小早川隆景宇喜多忠家村上水軍の6万1,000人を播磨国に展開させ上月城を奪還すべく包囲した。信長も上月城救援のため、信忠を総大将に明智光秀・丹羽長秀滝川一益ら諸将を援軍に出した。三木城を包囲中の羽柴秀吉も信忠の指揮下に入り、総勢7万2,000人の織田軍が播磨に展開する。しかし、膠着状態におちいると、信長は撤退を指示し、三木城の攻略に専念させる。篭城する尼子勝久主従は降伏し、上月城は落城した(上月城の戦い)。

同年10月4日、重臣の斎藤利治が越中国月岡野の戦い神保長住への援軍総大将として信長より派遣され、斉藤氏の加治田衆を筆頭に、信忠付の美濃衆・尾張衆も援軍に送っている。織田信忠は斎藤利治に対して「ご苦労の段とお察しする」と書状を送っている[注釈 3]

また、同年から翌天正7年(1579年)にかけて、摂津国で勃発した荒木村重の謀反(有岡城の戦い)の鎮圧にも出陣した。

天正8年(1580年)、尾張南部を統括していた佐久間信盛西美濃三人衆のひとり安藤守就が追放され、美濃・尾張の2か国における信忠の支配領域が広がった。
甲州征伐

天正10年(1582年)、織田信忠は織田軍の総大将として美濃・尾張の軍勢5万を率い、徳川家康北条氏政と共に武田領へと進攻を開始する(甲州征伐)。信忠は河尻秀隆滝川一益の両将を軍監とし、伊那方面から進軍して、信濃南部の武田方の拠点である飯田城高遠城を次々と攻略する。高遠城攻略においては自ら搦手口で陣頭に立って堀際に押し寄せ、柵を破り塀の上に登って配下に下知している(『信長公記』巻15)。

信忠の進撃は早く、武田勝頼は態勢を立て直すことができずに諏訪から退却し、新府城を焼き捨てて逃亡する。その後、織田信忠は追撃の手を休めず、信長が武田領に入る前に、勝頼・信勝父子を天目山の戦いにて自害に追い込み、武田氏を滅亡させた。

3月26日、甲府に入城した信長は、信忠の戦功を大いに賞賛し、梨地蒔の腰物を与え、「天下の儀も御与奪」との意志を表明する。この時、織田信忠は辞退したものの、信長からすれば織田氏家督のみならず天下人の地位も信忠に継承させることを内外に宣言したものであった[9]

論功行賞により、寄騎部将の河尻秀隆が甲斐国(穴山梅雪領を除く)と信濃国諏訪郡、森長可が信濃国高井・水内・更科・埴科郡、毛利長秀が信濃国伊那郡を与えられたことから、美濃・尾張・甲斐・信濃の四ヶ国に影響力を及ぼすこととなった。
本能寺の変二条良基邸・二条殿址。京都市中京区

天正10年(1582年)6月2日、織田信忠は父・信長と共に備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍に向かうべく、京都妙覚寺(この寺には信長もたびたび滞在していた)に滞在していた。この時、本能寺の変が発生した。

信忠は信長の宿所である本能寺を明智光秀が強襲した事を知ると、本能寺へ救援に向かうが、信長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく異母弟の津田源三郎(織田源三郎信房)、京都所司代村井貞勝や重臣斎藤利治ら側近と共に儲君皇太子)・誠仁親王の居宅である二条新御所御所の一つ)に移動した。信忠は誠仁親王を脱出させると、手回りのわずかな軍兵とともにそのままそこで籠城した。

しかし、明智軍の伊勢貞興が攻め寄せると、織田信忠は敵兵の数の多さに勝ち目がないと思い、その場で自刃した。26歳[5][10]。この時、介錯は鎌田新介が務め、信忠は「二条御所の縁の板を剥がして自らの遺骸を隠すように」と命じたという[10]。その後、父同様、信忠のその首が明智軍に発見されることはなかった。

法名は、大雲院殿三品羽林仙岩大禅定門、惣見寺では、光勝院殿三品悦岩大禅定門(「織田家譜」)[5]

京洛中にいたが、本能寺に入るには間に合わず、二条新御所に駆け付けた福富秀勝菅屋長頼猪子兵助団忠正らが斎藤利治を中心に明智勢と戦うが、信忠自害後に斎藤利治が「今は誰が為に惜しむべき命ぞや」と刺し違えて討死(忠死)した[11]

二条新御所での籠城時の具体的な戦闘内容について、『惟任謀反記』や『蓮成院記録』によると自ら剣をふるい敵の兵を斬ったとされる[注釈 4]。この時、信忠の小姓に下方弥三郎という若者がおり、彼は奮戦して左足を負傷し脇腹をやられて腸がはみ出していた。その姿を見た信忠は「勇鋭と言うべし。今生で恩賞を与える事はかなわぬが、願わくば来世において授けようぞ」と述べた。この信忠の言葉に弥三郎は感激し、笑いながら敵中に駈け出して討死したと伝わる[12]

この時、信忠は武田家滅亡後に八王子に落ち延びていた松姫に使者を出しており、彼女を妙覚寺に招こうとしていたといわれる。既に旅中にあったとされるが、しかし再会を果たすことはできず、信忠自刃の報を聞いた松姫は八王子に戻り、出家して心源院で武田家と共に信忠の供養を行った。一部の史料には信忠の子・三法師(織田秀信)の生母は実は松姫だったとするものもある。
人物
評価

かつては徳川史観から来た
松平信康との比較で暗愚な凡将との評価が定評だった。その根拠は、高柳光寿の1962年の著書『青史端紅』において、信康切腹事件の真相について語られた説に由来する。この説によれば、信長が、自分の嫡子である信忠に比べて家康の嫡子信康の方が遙かに優れていたため、将来を危惧し信康を除いたことが事件の真相であるという。この説は、高柳光寿が当時の学会で権威を持っていたこともあって広く浸透し、信忠を暗愚とするイメージが長く定着することとなった。この説は、あくまで信康の切腹を中心に据え、その動機の一つの可能性を示したに過ぎず、両者の事績を冷静に比較したものではない。

近年では信忠の事績が見直され、信長の後見を考慮に入れても信忠は無難に軍務や政務をこなしていたことが指摘される。そのため信忠が暗愚であるとする従来の説は根拠に乏しいとの見方が有力になり、現在では後継者として十分な能力・資質を備えた武将との評価が主流になっている。

本能寺の変において、信長には脱出できる可能性は皆無だったが、信忠には京都から脱出できる可能性があった[注釈 5]。なお、『当代記』によれば、光秀襲撃の際に側近の中には安土に逃げて再起を図るように諫言する者もいたが「これほどの謀反を企てる奴(光秀)なら、どうして洛中の出入り口に手をまわしていないであろうか。無様に逃げ出して途中で果てることこそ無念である。悪戯にこの場所から退くべきではない」と述べたという。これが事実だとすれば、この決断は誤りで余りに信忠は潔すぎたといえる[10] 。ただし、この『当代記』に記載された逸話の信憑性は不確かである。

逸話

出生した時、顔が奇妙であるということから、信長より奇妙丸という幼名を与えられたという。幼い頃から家督相続を約束されていた信忠は、信長から雑用を一切させないなどの厚遇を受け、武将として出陣する前から信長の戦に連れられ、戦いを学んでいた。父・信長が足利義昭より尾張守護の斯波家の家督を与えられた折に、自らは辞し息子信忠に斯波家を継承させたともいわれる。

天正9年(
1581年)の京都御馬揃えの際、織田家一門の中における序列は第1位であった。また、信長存命中は形式的ながらも家督を譲られており、父がかつて礎としていた尾張と美濃の統治を任されていた。

『名将富鉱録』では、織田家家臣たちには優れた武将とされていたが、信長には「見た目だけの器用者など愚か者と同じ」と評価されたと記されている。ただし甲州征伐高遠城を落とした際、信長からその働きを賞賛され、3月26日に「天下の儀も御与奪なさるべき旨」を述べられたという(『信長公記』巻15)[10]


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