織田信吉
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慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍につき、弟の織田長次と共に平塚為広勢に加わり、兵500で大谷吉継隊の前備えをなした[1]。9月15日の本戦では主将大谷吉継以下平塚為広・織田長次ら同陣した諸将は討ち死にしたものの、信吉は戦場を離脱に成功した。戦後に改易となり、豊臣家を頼り、大坂城下で暮らす。また、晩年は京都で暮らした。この間に剃髪して道卜と号した。

慶長20年(1615年)4月18日京都にて死去。享年43。法名は小曄院殿雲厳道卜[1]
系譜

子女は1男1女。

父:
織田信長

母:興雲院 - お鍋の方

妻:不詳

男子:左馬介沙弥了甫(良甫)

女子:竹森清左衛門室

息子の了甫(良甫、左馬介、1602年 - 1665年)は僧、娘は紀州徳川家の侍女や竹森清左衛門の妻となった。了甫には織田吉伯・織田千栄・秀詠・織田吉雄の男子があり、秀詠は出家し、千栄・吉雄は京極高国の家臣になっている。子孫は水戸に移住し、津田姓を名乗った。大徳寺塔頭総見院にある信吉の墓石には「水戸津田家先祖」と刻字されている。
脚注^ a b c d e 新人物文庫『信長の子』「歴史読本」編集部編、「その他の息子たち」和田裕弘、p.107-p.111
^ ただし生年は1576年で、実際には信高の方が弟であるが、織田家中の席次は信高が上位であるため便宜上、兄とされている。


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