縄文時代
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旧石器時代の後に当たり、世界史では中石器時代、または新石器時代に相当する時代である。

旧石器時代(非定住狩猟採集社会)と縄文時代の違いとしては、土器弓矢の使用[1]、磨製石器の発達[1]、定住化の始まりと竪穴建物掘立柱建物の普及、環状集落等の定住集落貝塚の形成、植物栽培(半栽培)の始まりなどが挙げられる。また、遅くとも後期には稲作が開始されていたと考えられるが、多様な生業の一つに留まっていた点において、稲作に特化した弥生時代とは異なるとされる。

始期と終期とについては多くの議論がある。始期に関しては一般的に1万6000±850年前と考えられている[2][注 1]。終期は定型的な水田稲作や金属器の使用を特徴とする弥生文化の登場を契機とするが、地域差が大きく、年代について紀元前数世紀から紀元前10世紀頃まで多くの議論がある。また、東北北部から北海道では他地域に弥生文化が登場した後も縄文時代の生活様式が継承された(続縄文時代)。

沖縄諸島では縄文時代に相当する期間は前期貝塚時代に区分される。狩猟・採取が生活が中心であったことや水田が見つかっていないことから、本土の縄文時代とは区別される。「縄文時代」の呼称が定着するまでは日本本土の石器時代と沖縄諸島の同時代を纏めて貝塚時代(もしくは石器時代)と呼称していたが、縄文時代の呼称が定着した後も沖縄のそれは貝塚時代の呼称が用いられ続けている。
定義と時期長岡市馬高遺跡出土「火焔土器(馬高A式1号深鉢土器)」の3Dデータ

縄文文化は完新世の温暖化にともなう環境の変化に対応して日本列島の旧石器人が生み出した文化であり、その特徴としては、弓矢土器の使用、磨製石器の発達などが挙げられる[1]。また、各地域の生態系に根ざした採集経済に基礎を置く点で、稲作に特化し生態系の改変をともなう生産経済に基づく弥生文化[注 2]と区別される[4][5]。このような縄文文化の時代を縄文時代と呼ぶ[6]

縄文時代という時代区分日本史に固有のものであり、世界史の枠組みにおいては新石器時代という区分が一般的に用いられる[7][8]。他の地域の新石器時代との共通点としては、上記の磨製石器や土器の使用のほか、定住生活なども挙げられる[8]。ただし、食糧生産経済の本格化には至らず狩猟採集経済が継続しており、この点において縄文時代は、他の地域とは異なる珍しい形態の新石器時代として位置づけられる[7][8]。狩猟採集経済でありながら定住生活を営んでいたという点において類例として知られているのは、北アメリカ北西海岸の先住民[注 3]のみである[8]。このような特異な形態は、後述するように、豊かな自然環境を大いに活用することによって可能となったものである[10]。細石刃の出現を指標とし、縄文時代の一部を中石器時代とする説もある。

縄文文化[注 4]は元々、縄文土器を用いる文化として位置づけられたものであり[11]、縄文時代の定義として縄文土器の使用を挙げる場合もある[6]後述するように、縄文土器(Cord Marked Pottery)の語はエドワード・S・モースの1877年(明治10年)の報告に見られるが、縄文時代という名称の時代区分が定着したのは第二次世界大戦後である。縄文土器の多様性は時代差や地域差を識別する基準として有効であり、時期区分についても草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分ける土器型式上の区分が慣用化している[12][2]。各時期の境界年代については炭素14年代法およびその年輪補正などに関連し諸説があるが[13][14]、たとえば佐々木 (2020, p. 19) は、

草創期: 1万7000年前 - 1万1500年前

早期: 1万1500年前 - 7000年前

前期: 7000年前 - 5500年前

中期: 5500年前 - 4400年前

後期: 4400年前 - 3200年前

晩期: 3200年前 - 2400年前東北関東地方[15]

としており[注 5]、中期が縄文時代の中頃というわけではない[2]

縄文時代・文化の時間・空間的な範囲や定義・内容については、研究者によって複数の説が唱えられており、2015年現在においても議論が続けられている[16]。時期区分や年代推定の研究史上の変遷や、上記以外の文化史的区分については後述する。
分布

縄文文化の定義は一様ではないため、縄文文化が地理的にどのような範囲に分布していたかを一義に決定することはできない。縄文土器の分布を目安とした場合、北は礼文島千島列島、南は沖縄本島を限界とし、宮古島八重山諸島には分布しない(八重山諸島は台湾島の土器と同系統のもの)。すなわち、現在の日本国の国境線とは微妙にズレた範囲が縄文土器の分布域である。また、縄文文化は日本列島のどの地域でも同質のものだったのではなく、多様な地域性を備えた文化群であったことが指摘されている。

縄文人が製作した土偶は、縄文時代の全期間を通して日本列島各地で満遍なく使われていたのではなく、時期と地域の両面で限定されたものであった。すなわち、縄文早期の更に前半期に関東地方の東部で集中的に使用された後、縄文中期に土偶の使用は一旦消滅している。その後、縄文後期の前半に東日本で再び土偶が使用されるようになる。一方、それまで土偶の使用が見られなかった九州においては、縄文後期になって九州北部および中部で土偶が登場している。こうした土偶の使用の地域性について藤尾 (2002) は、ブナナラクリトチノキなどの落葉性堅果類を主食とした地域(つまりこれら落葉樹林に覆われていた地域)と、西日本を中心とした照葉樹林帯との生業形態の差異と関連づけて説明している。


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