縄文時代
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縄文人が製作した土偶は、縄文時代の全期間を通して日本列島各地で満遍なく使われていたのではなく、時期と地域の両面で限定されたものであった。すなわち、縄文早期の更に前半期に関東地方の東部で集中的に使用された後、縄文中期に土偶の使用は一旦消滅している。その後、縄文後期の前半に東日本で再び土偶が使用されるようになる。一方、それまで土偶の使用が見られなかった九州においては、縄文後期になって九州北部および中部で土偶が登場している。こうした土偶の使用の地域性について藤尾 (2002) は、ブナナラクリトチノキなどの落葉性堅果類を主食とした地域(つまりこれら落葉樹林に覆われていた地域)と、西日本を中心とした照葉樹林帯との生業形態の差異と関連づけて説明している。落葉性堅果類、すなわちクリやいわゆるドングリは秋の一時期に集中的に収穫され、比較的大きな集落による労働集約的な作業が必要となるため、土偶を用いた祭祀を行うことで社会集団を統合していたのではないかという考え方である[18]。(しかし出土している土偶の最古のものは縄文時代草創期の滋賀県相谷熊原遺跡三重県粥見井尻遺跡など近畿地方であり、鹿児島県上野原遺跡からも早期の土偶が出土している)
9つの文化圏

前述のように、縄文前期には日本列島内に以下の9つの文化圏が成立していたと考えられている[19]
石狩低地以東の北海道
エゾマツトドマツといった針葉樹が優勢な地域。トチノキやクリが分布していない点も他地域との大きな違いである。トドアザラシオットセイという寒流系の海獣が豊富であり、それらを捕獲する為の回転式離頭銛が発達した。
北海道西南部および東北北部
石狩低地以東と異なり、植生が落葉樹林帯である。ミズナラコナラ、クルミ、クリ、トチノキといった堅果類の採集が盛んに行われた。回転式離頭銛による海獣捕獲も行われたが、カモシカなどの陸上のほ乳類の狩猟も行った点に、石狩以東との違いがある。
東北南部
動物性の食料としては陸上のニホンジカ、イノシシ、海からはカツオマグロサメイルカを主に利用した。前2者とは異なり、この文化圏の沖合は暖流が優越する為、寒流系の海獣狩猟は行われなかった。
関東
照葉樹林帯の植物性食料と内湾性の漁労がこの文化圏の特徴で、特に貝塚については日本列島全体の貝塚のうちおよそ6割がこの文化圏のものである。陸上の動物性食料としてはシカとイノシシが中心。海からはハマグリアサリを採取した他、スズキクロダイも多く食した。これらの海産物は内湾で捕獲されるものであり、土器を錘(おもり)とした網による漁業を行っていた。
北陸
シカ、イノシシ、ツキノワグマが主な狩猟対象であった。植生は落葉広葉樹(トチノキ、ナラ)で、豪雪地帯である為に家屋は大型化した。
東海・甲信
狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹であるが、ヤマノイモユリの根なども食用とした。打製石斧の使用も特徴の一つである。
北陸・近畿・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後
狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹に照葉樹(シイカシ)も加わる。漁業面では切目石錘(石を加工して作った網用の錘)の使用が特徴であるが、これは関東の土器片による錘の技術が伝播して出現したと考えられている。
九州(豊前・豊後を除く)
狩猟対象はシカとイノシシ。植生は照葉樹林帯。最大の特徴は九州島と朝鮮半島の間に広がる多島海 を舞台とした外洋性の漁労活動で、西北九州(北松浦半島)型結合釣り針や石鋸が特徴的な漁具である。結合釣り針とは複数の部材を縛り合わせた大型の釣り針で、同じ発想のものは古代ポリネシアでも用いられていたが、この文化圏のそれは朝鮮半島東岸のオサンリ型結合釣り針と一部分布域が重なっている。九州南部は縄文早期末に鬼界カルデラの大噴火があり、ほぼ全滅と考えられる壊滅的な被害を受けた。
トカラ列島以南
植生は照葉樹林帯である。動物性タンパク質としてはウミガメジュゴンを食用とする。珊瑚礁内での漁労も特徴であり、漁具としてはシャコガイタカラガイなどの貝殻を網漁の錘に用いた。九州文化圏との交流もあった。

これら9つの文化圏の間の関係であるが、縄文文化という一つの文化圏内での差異というよりは、「発展の方向を同じくする別個の地域文化」と見るべきであるとの渡辺誠による指摘がある。つまり、これら全ての文化圏のいずれもが共通の、しかし細部が若干異なる文化要素のセットを保持していたのではなく、それぞれの文化圏が地域ごとの環境条件に適合した幾つかの文化要素を選択保持しており、ある文化圏には存在したが別の文化圏には存在しなかった文化要素も当然ながら見られるのである。

縄文後期に入ると、これら9つの文化圏のうち、「北海道西南部および東北北部」「東北南部」「関東」「北陸」「東海・甲信」の5つがまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における「ナラ林文化」)を構成するようになり、また「北陸・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後」「九州(豊前・豊後を除く)」がまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における照葉樹林文化)を構成するようになる。その結果、縄文後期・晩期には文化圏の数は4つに減少する。
変遷
旧石器から縄文へ

日本列島の旧石器時代の人々は更新世の末まで、大型哺乳動物(ヘラジカヤギュウオーロックス、ナウマンゾウ、オオツノシカなど。)や中・小型哺乳動物(ニホンジカイノシシ、アナグマ、ノウサギなど。)を狩猟対象としていた。大型哺乳動物は季節によって広範囲に移動を繰り返すので、それを追って旧石器時代人も移動しながらのキャンプ生活を主体とする遊動生活を繰り返してきた。移動生活の痕跡と見られるキル・サイト[注 6]やブロック(遺物集中)[注 7]、ブロックの大規模な集合体である環状ブロック群礫群[注 8]、炭の粒子の集中する遺構(炭化物集中、)などは日本列島内で1万ヶ所も発見されている[20]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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