縄文土器
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この土器は、やがて北九州で、弥生土器、遠賀川式土器に変わっていった、

東日本は、東北に見られる亀ヶ岡式土器(かめがおかしきどき)のように、火炎型の土器が特徴的である。ただし、亀ヶ岡式の火炎型は、祭祀用と見られ、東日本でも日常土器は簡素なものが多い。
気候帯と文化圏

縄文後期は、土器は東日本(ナラ林文化圏)と西日本(照葉樹林文化圏)に大別されるが、より古い時代には、文化圏はより細分され、変遷していた。照葉樹林文化圏は、弥生時代には、水田稲作を主とする様になるが、それ以前では、ドングリ、クリなどが多くなく、人が棲むのに適さなかった。一方、東日本のナラ林文化圏は、ドングリが豊富で人口を多く養うことが出来た、縄文土器が東北を中心に影響力が強いのは、このような理由である。今西錦司は、中尾佐助の照葉樹林文化圏の提唱に対し、森林の食物に適した樹木が少なく、生活に適さないと批判している。
文化圏と弥生土器の波及

この両文化圏の差異があるため、弥生土器の広がりが影響を受けた。それは、弥生時代に始まった、北九州の水田や土器は、尾張の中心まで100年くらいで急速に到達した。しかし、濃尾平野の中心を流れる木曽川で波及が一時停滞した。そして水田稲作は、尾張の中心境界を超えるとその後は、関東や東北南部にまで、停滞なく広がっていった。大きなまとまりを見せる東日本のP文化圏は、東北と関東中部に大別され、水田稲作が寒冷の地に適さなかったこともあり東北へび水田稲作の波及は遅れた、ただし、もちろん、照葉樹林文化圏は、尾張はもちろん、関東をも含む。
弥生土器への移行

九州で水田稲作が始まった当時の土器は、刻目突帯文土器(きざみめとったいもんどき)である。この土器は、菜畑遺跡や板付遺跡などの水田のある最古の層の大部分を占める縄文土器である。そのうちの数%の土器は、形は突帯文土器だが、技法は朝鮮無文土器であった。

その後、形は縄文系を保つが、作成の技法は、半島の無文土器を使う弥生土器である板付1式に変わる。この意味で、西日本の縄文土器は、弥生土器の系譜に連なっている。また、東北北部や北海道では、かなり遅くまで縄文土器の系統をひく土器が使われ続けた(続縄文文化)。
土器の系統と集団の移動

縄文土器の型式は、その地域に存在していた型式から次の型式へと変化していくものである。しかし、一つの地域でばかり次々へと変化していくばかりではない。別々の場所で生産され、系統性も異なる土器が、一つの遺跡に共存したり、ときには別の系統の文様が一つの土器に併用されていることや西日本の一型式が遠く離れた関東に移動し、その遺跡の起源となるといった系統の大移動などが知られている。

また、ある型式の土器が移動し、在地の土器と混合しないで、一軒の住居跡から発見されることも知られている。このような現象の背景には、縄文人の集団の移動や集団間の接触・交渉があったと思われる。また、それらの現象を引き起こした原因を追究することで、今まであまり追究されてこなかった縄文人の集落や社会についての解明が進むであろう、と考えられている。
縄文土器の使用と食料生産、人口 

詳しくは、縄文時代を参照

縄文時代の人口密度は、狩猟採集社会としては例外的に高く、定住生活を送っていた。このため、縄文時代(特に中期以降の東日本)が本当に狩猟採集のみに依存した社会であったかは論争がある。縄文時代中期の東北地方北部の巨大集落として知られる三内丸山遺跡では、出土したクリの遺伝子が極めて均質であったことから、クリが栽培されていた事が解っている。この他、東北では川を遡る鮭が大量にとれ、これが東北の繁栄の基礎とする意見もある。

しかし、縄文中期後葉に寒冷化が襲い、東北では巨大集落がみられなくなる。それでも、人口の中心はやはり関東地方を中心とした東日本であり、西日本の人口は希薄であった。
縄文土器の地方分化

草創期第2段階(15800calBP)には土器は地方ごとに分化し、また、煮沸用の先の尖った日本特有の土器もできる等、器種も多様化した。隆起線文土器群がこの草創期第二段階の時代の代表的な器種である。この隆起線文土器を継ぐいくつかの器種が生まれ、その一つが縄文を施す土器である。
縄文土器の使用

縄文土器は多様な大きさと器種・装飾的な文様などさまざまなものが存在するため、土器の機能や使用される場面も異なったものであると考えられている。縄文土器の使用用途には食料資源の調理・加工や盛り付け、祭祀目的が考えられている。

縄文土器のうち深鉢などには煮沸痕を有するものがあることから、食料煮る(煮沸)ため、あるいは貯蔵するために用いられたと考えられる。

縄文土器が出現した時代は、後期旧石器時代のナウマンゾウのような大型哺乳類が日本列島で絶滅した時期と重なるため、旧石器時代の狩猟により得られた獣肉を主食とするスタイルから、狩猟・漁労に加えて堅果など植物質食料を組み合わせた食習慣に変化した。また、堅果の多くは収穫時期が限られるために、貯蔵する必要が生じた。さらに、堅果を食用とするためには加熱・粉砕・煮込みなど加工過程が必要となったほか、獣肉や魚介類のように直火で炙るのは困難であるため、加熱するには調理器具としての土器が必要となった。

後期以降の縄文土器は粗製土器と精製土器が作り分けられており、これは「ハレ」の器と「ケ」の器を区別したとする説がある。

なお、縄文土器が煮沸具として器種の多様性を有するのに対し、弥生土器は画一化されたが用いられている。
食料の加工・生業

ドングリトチノミなどの堅果は、食料とするために小河川などに作業場を設け、水漬けや灰汁を使ってアクの成分であるサポニンを渋抜きをする工程が必要であり、そのため灰が必要であった。を得るために大量の草木を燃やした事が、土器製法の発見につながった。あるいは土器を製作する際に生まれた灰から、ドングリやトチノミを渋抜きする方法が発見されたと考えられる。土器の製法と渋抜きの方法のどちらが先に発見されたかは不明だが、日本列島において世界的に見て最初期に土器が普及したのは、こうした事情によると想像される。

生業面では漁労活動において漁網釣り糸に用いる錘として、土器胎土の断片から作られた土器片錘が用いられた。また、土器片を円形に加工した土器片加工円盤が作られ、中心を穿孔するものは紡錘車とする説もある。
縄文土器を用いた弔い、祭祀と形状
縄文土器を用いた弔い 埋甕、甕棺墓
祭祀面では住居内に土器を埋納
する埋甕(うめがめ)が存在し、埋葬に関わる施設であると考えられている。後期後葉から晩期には、西日本を中心に甕棺が見られ、土壙墓など共に墓域を形成する。弥生時代にも甕棺は存在するが、弥生時代は棺用に土器を作成するのに対し、縄文時代では煮炊きに使用した土器をそのまま棺桶に使用する。そのため、成人ではなく乳幼児を埋葬したものと考えられる。
縄文土器を用いた祭祀と形状、用途
男性原理の象徴と考えられている石器に対して、食料の保存加工に用いる土器は女性原理に属するものであると考えられており、信仰に関わる土製品には代表的な土偶のほか、土器片を再利用して人形状土製品や鏃状土製品、土製円盤、土器片錘などが作られた。
作成法と形と系統
粘土加工と文様


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