日本では、1887年度(明治20年度)末の時点で、貨車に制動手室を取り付けた貨物緩急車と呼ばれていたものが28両在籍していたという記録がある。その後、ブレーキを取り付けた車両の比率が高められ、1905年度(明治38年度)末の時点で758両、全貨車の9%が緩急車となった[4]。
一方客車については、1878年度(明治11年)に下等緩急合造車8両、荷物緩急車17両が在籍していたとされる[5]。以後客車の緩急車はもっぱら合造車であり、国鉄客車の車両形式の規定に基づいて記号が付与されている。
1897年(明治30年)11月に初めて貨車に車種記号が定められ、緩急車の記号はブレーキの「ブ」となった。貨物緩急車は「カブ」となっている。1911年(明治44年)には、鉄道国有化を受けた称号規程が制定され、濁点が取れて「フ」が緩急車の記号となった。この場合、「フ」は記号の末尾に付される(ハフ、ワフなど)が、車掌室がなく手ブレーキのみを備えた車両もあり、この場合は記号の先頭に付された(フハ、フワなど)。
特殊な緩急車として、1901年(明治34年)にピブ1形歯車付緩急車が登場した。信越本線横川 - 軽井沢間の碓氷峠には急勾配区間があり、これを克服するためにレールの間に歯形のレール(ラックレール)を敷設し、車両側に備えた歯車を噛み合わせて登るラック式鉄道(アプト式)となっていた。このため、緩急車も通常の車輪に加えて歯車を備えてそれにもブレーキを掛ける特殊な車両が求められ、歯車付緩急車が使われるようになった。歯車付緩急車の記号「ピ」はピニオン(歯車)のピで、これに緩急車を意味するブを組み合わせている。1911年の称号規定改正では「ピフ」になり、1928年の称号規定改正では「ピ」となった。しかし貫通ブレーキの装備進展に伴い歯車付緩急車は1931年(昭和6年)までに全て消滅し、暖房車に転用された。
日本では、大正時代から空気ブレーキの装備が進められ、1930年(昭和5年)から全ての貨物列車の空気ブレーキ運転が始められた。この時点ではまだブレーキシリンダーの装備が終わっていない貨車も存在していたが、1933年(昭和8年)までに取り付けが完了した。これにより貫通ブレーキの使用ができるようになり、緩急車は車掌弁を備えた車掌室を取り付けた貨車として使われるようになった。
日本で初めての車掌車(貨物を搭載しない車両)は、小口貨物輸送の強化に伴って荷扱車掌を乗務させる必要が出たために1926年(大正15年)から二軸客車の改造によって製作されたヨフ6000形、ヨフ7000形であった。当初は「フ」の上に車掌車を示す記号として「ヨ」[6]が加えられ「ヨフ」であったが、1928年の称号規程改正により「ヨ」に改められ、これが現在まで用いられている。一方、合造の緩急車を示す「フ」は従来のまま末尾記号として使用された。
緩急車および車掌車は、戦後も貨物列車に車掌を乗務させ続けたために引き続き製作された。しかし、1985年3月14日国鉄ダイヤ改正から貨物列車における緩急車・車掌車の連結は原則廃止された。概要で述べたように車掌の重要な職務である、事故が起きた場合などの後方防護が、列車防護無線装置の発達で代行できるようになったためである。現在では特殊な例を除いて連結されることはない。
客車においても、車掌が乗り込むスペースと車掌弁を備えた車両は緩急車と称して記号「フ」を付けており、例えば24系(24形)では、基本のB寝台車がオハネ24形であるのに対して、車掌室を備えた車両はオハネフ24形である。客車列車においては、最後尾にかならず緩急車またはそれ以外のブレーキ装置を連結する。
脚注[脚注の使い方]^ 『輸送の安全から見た鉄道史』 pp.228-229。
^ a b 『輸送の安全から見た鉄道史』 pp.230-231。
^ 『アメリカの鉄道史』p.242
^ 『貨物鉄道百三十年史』下 p.375。
^ 『日本国有鉄道百年史第二巻』 p.285。
^ 「シャショウ」のヨ。旧名「用務車」(ヨウムシャ)の頭文字を取ったという説もあるが、鉄道省?国鉄においてその名称が使用されたことを示す記録はない。
参考文献
日本貨物鉄道株式会社貨物鉄道百三十年史編纂委員会『貨物鉄道百三十年史(下)』 日本貨物鉄道 2007年
日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史』
江崎 昭『輸送の安全から見た鉄道史』グランプリ出版 1998年 ISBN 4-87687-195-7
岡田 誠一 RM LIBRARY 44『国鉄暖房車のすべて』 ネコ・パブリッシング 2003年 ISBN 4-87366-334-2
近藤 喜代太郎『アメリカの鉄道史』 成山堂書店 2007年 ISBN 978-4-425-96131-3 pp.241 - 242
関連項目