緒方恵美
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父親は東宝に在籍し、宝塚の指揮者やトロンボーン演奏、越路吹雪がいた頃のミュージカル音楽監督などを務め[30]、母親は声楽といった音楽一家で育つ。家にはいつも音楽が流れていて、フルートヴァイオリンチェロといった楽器も数十種類あった[31][32]

秋葉原にあった生家は、細い5階建てのビルとその裏の2階建ての一軒家を連絡通路で繋いで暮らしていた。緒方家は100年続く家業として、日本酒の酒度を測る計器を扱う会社を経営しており、ビル内は会社用スペースと居住スペースが混在していた。その後父が心臓を患い楽器が吹けなくなったため家業を継ぐと同時に、妻と共にビルの1階で喫茶店を経営した[11]
10代の頃

小学6年生の頃に学芸会の演劇で初めて舞台に立つと周りから演技を褒められ、演じることの楽しさを知った[11]。また、その後映画館で『宇宙戦艦ヤマト』と『銀河鉄道999』[注 2]を鑑賞し、購入したパンフレットを熟読したことで声優という職業の存在を知る[11]

中学ではハンドボール部に入部し、試合のない土日は両親の喫茶店でアルバイトを始めた。高校進学後、芸能事務所の養成所の入所試験に応募したところ合格し、2ヶ月ほどでドラマ舞台の仕事の話を貰えるようになった。しかし、通っていた高校の規則で在学中の芸能活動は禁止だったことが判明し、芸能活動を断念し程なく退所。この挫折経験が元で本格的に役者の道を志し、高校で友人たちと演劇サークルを立ち上げ、芝居の面白さに嵌っていった[11]

「高校卒業したらプロの役者になろう」と考えたが父の反対に遭い、大学に通いながら演劇活動をすることを決める。得意科目だけで受験できる大学を探した結果、東海大学海洋学部が当てはまったため、受験し合格。しかし入学間際になり同学部のキャンパスが静岡県沼津市にあると知り、急遽現地の学生寮を契約し入学後から暮らし始めた[11]
ミュージカル女優から声優の道に

しかし大学生活を送る中で「やっぱり東京で芝居がしたい。ここにいてはダメだ」との思いに駆られ、親に無断で大学を中退。実家に戻るも父親に叱咤され家を追い出されたため、アルバイトで貯めていた資金で世田谷区南烏山千歳烏山駅辺り)のアパートに下宿し、困窮生活を送った[注 3]

その後窮状を見かねた祖母が間に入ったことで、両親から「オペラを学ぶのならいい」との許可を得て、東京声専音楽学校(後の昭和音楽芸術学院)に通うことが決まった。しかしここでも緒方は親に内密で、オペラではなく新設されたミュージカル科に願書を提出。入学後は南烏山のアパートを引っ越した後、アルバイトを掛け持ちしながらミュージカル女優を目指した[11]

声優デビュー直後はレギュラー番組が1、2本だったため、空き日を演技や発声などのトレーニングに活用できた。しかし約半年後、声優専門雑誌が次々と創刊され、第3次声優ブームが起きたことで緒方を取り巻く状況が一変する。この頃を境に月10本以上のレギュラーの仕事を抱えるようになった[注 4][注 5]
青二塾入塾以降の私生活

青二塾に通い始めた頃、心臓を患う父の容態が悪化し、当時の恋人にそのことを話したところ、「お父さんのためにも近い内に結婚しよう」とプロポーズを受け、急遽結婚が決まった。緒方の花嫁姿を見た父は、「唯一の親孝行をしてくれた」と喜び、後日他界した[11]

その後、主婦業の傍ら青二塾へ通ったが、卒業後はオーディションや仕事上の予定が増えたことで家庭に割く時間が削られるようになった。やがて『幽☆遊☆白書』のオーディションで初めて役を得るも、そのことで今後の声優活動がより多忙になると分かり、夫と話し合い半年後に離婚した[11]

離婚後は、実家にほど近い文京区根津のアパートで一人暮らしを始めた。1998年に事務所を退所してフリーになり、豊島区椎名町駅付近に2DKのマンションと個人事務所を借り再出発するも心労が重なり、2000年に休業[11]

しかし程なくして実家が多額の借金を抱えていることを知り[注 6]実家を支援するため、自身のマンションと個人事務所を解約し、休業を切り上げて声優活動を再開せざるを得なくなった。実家の借金やビル等の問題は、(2022年の)数年前に片が付いたとのこと[注 7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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