緒形拳
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改名後は何の因果か映画『遠い一つの道』のボクサーの役が回ってくるという効果があった[8]
二人の師匠

新国劇入団後、二大看板役者だった辰巳柳太郎と島田正吾に目をかけられた緒形は、演技指導を受けて劇団のホープとして頭角を現すようになった。しかし先述の大河ドラマでの好演によりテレビ業界からオファーが舞い込むようになり、舞台とテレビがそれぞれ拘束時間が長いことから両立が難しくなった。どちらかを選ぶことになった結果、辰巳と島田の両師匠を裏切る形[4]で新国劇を退団することとなる。

ただしその後も緒形は「自分は舞台役者」と語っており、新国劇を離れた後も島田と辰巳という二人の師匠に対する思いは終生変わらなかった。後年、二人の師匠と和解した[4]緒形は、新国劇が70年の幕を下ろす1987年の最終公演で、辰巳の当たり役で知られた戯曲『王将』の坂田三吉を演じ、「辰巳先生に見てもらいたい」という思いで取り組んだ。

また、島田が新国劇の開祖である澤田正二郎から受け継ぎ、取り組んでいたひとり芝居『白野 シラノ』を島田の三回忌追善興行として緒形自らが受け継ぎ、2006年にシアターコクーンで演じ、結果としてこれが舞台としての最後の作品となった。
演技に対する姿勢と周りからの評価

長年親交があった映画評論家の垣井道弘は、「新国劇時代に豪快な演技が魅力の辰巳と、繊細な演技が得意な島田というタイプの違う二人の師匠を持ったことで、緒形さんは演技の幅の広い役者になった」と評している[4]。また、「緒形さんは『自分は演技をすることで生きているんだ』というはっきりした考えを持った人でした。“役作り”という言葉が嫌いで、台本のセリフが自分の言葉になるまで何度も何度も読み込むのです。役を作るのではなく、役が自分に憑依するまで突き詰めていました[注釈 2]

緒形は“日常の全てが仕事(=演技)に通じている”と考え、高みにたどり着くための努力を怠らない“仕事の鬼”だった。垣井によると映画『魚影の群れ』で漁師役を演じることになった緒形は、ロケの1か月前から青森県大間町に住み込み、現地の漁師と一緒に漁をして役に備えた。その後の撮影時の緒形は衣装部が用意した服ではなく、先の漁師の一人が着用していた赤いセーター[注釈 3]を借りて出演した[4]

長男・緒形幹太は、「父が新国劇を辞めた後少しはプライベートの時間に余裕ができるのかと思ったが、結局映画やテレビの撮影ばかりでほとんど家にいない状態になった。たまに家にいても父は常に台本とにらめっこ。毎年盆暮れ正月だけは家族水入らずの時間を作ってくれたが、その日も時間を見つけては台本に書き込みをしていた。仕事を全身全霊でやり遂げる父は、言わば“全身俳優”でした」と後年語っている[4]
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SFミステリー漫画に造詣が深く、テレビドラマ『迷宮課刑事おみやさん』は緒方の発案企画。ドラキュラ伯爵(の復活体)とぬらりひょんという、東西を代表する妖怪に映画で扮している。ラジオドラマで金田一耕助を演じたこともある。『咬みつきたい』公開前後の1991年には『とんねるずのみなさんのおかげです』にゲスト出演しており、「咬みつきたい」を元にしたコント劇に出た。また、エンディングでトマトジュースをとんねるずと3人で飲む際に、石橋貴明が当時緒形が出演していたキリンビールのCM曲を口ずさんだところで、緒形は「それやめて」と言った。


1980年代半ばよりポール・シュレイダー監督作の『Mishima: A Life In Four Chapters』など外国映画への出演も増えたが、勝新太郎が「道草しちゃだめだよ」と忠告。その際、本人は「メインストリームより田んぼのあぜ道って楽しい」と語っている。その後、活動を日本映画に戻した。


書家としても活動していた。1991年には初個展を開催し、書籍『臍下丹田(せいかたんでん)』を出版した。2007年8月に発売された竹内まりやのシングル『チャンスの前髪/人生の扉』の題字は、竹内のリクエストで緒形が手掛けている。


緒形は「自分は舞台役者」と語っており、新国劇を離れた後も島田正吾と辰巳柳太郎というふたりの師匠に対する思いは終生変わらなかった。辰巳柳太郎の当たり役で知られた戯曲『王将』の坂田三吉を演じたときは「辰巳先生に見てもらいたい」という思いで取り組んだ。また、島田正吾が新国劇の開祖である澤田正二郎から受け継ぎ、取り組んでいたひとり芝居『白野 シラノ』を島田の三回忌追善興行として緒形自らが受け継ぎ、2006年にシアターコクーンで演じた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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