緑の党は、環境保護だけでなく平和外交・人権・産業構造・教育・社会保障・労働・食料など幅広い政策をもつオールラウンドな政党であり、平和で持続可能で社会正義のある新しいエコロジー社会を目指す。営利企業の自由を最優先する新自由主義的改革(およびそのグローバル化)、国民国家、ナショナリズム、軍事・治安国家化には批判的である。
現在ではアメリカやアジアを含む多くの国々に緑の党が存在するが、最も強い政治基盤を確立しているのはヨーロッパにおいてである。政権参加の最初のケースは1995年のフィンランド緑の同盟であり、最も長期のケースはドイツ緑の党の社会民主党との連立政権(1998年-2005年)である。
他方で、アメリカなどの選挙制度が小選挙区制の国では、緑の党は国政レベルにほとんど影響力をもてないでいる。そのためこれらの国の緑の党は、選挙制度の民主化に焦点を当てている。なおアメリカにおいてもカリフォルニア州など市町村議会のレベルでは議席を確保している。
また環境問題やグローバル経済、南北問題などに対応するため、グリーン勢力は国際連帯にも熱心である。2001年4月16日にオーストラリアのキャンベラで、緑の党の国際組織であるグローバルグリーンズ(Global Greens,「緑の地球同盟」)が結成された。ここでは、「グローバルグリーン憲章」が採択され、その後世界の緑の党の指針となっている。「グローバルグリーン憲章」では、諸原則(理念)として、エコロジーの知識、社会的公正、参加民主主義、非暴力、持続可能性、多様性の尊重の6つを掲げる。また、政治的行動(政策・行動)として、1.民主主義 2.公正さ 3.気候変動とエネルギー 4.生物多様性 5.持続可能性の諸原則にもとづく経済的グローバリゼーションの抑制 6.人権 7.食糧と水 8.持続可能な計画 9.平和と安全保障 10.グローバルに行動することの行動指針を掲げている。また2004年には、欧州連合規模の欧州緑の党 (European Green Party)、および北欧グリーンレフト同盟 (Nordic Green Left Alliance) が結成されるなど、世界の各地域で緑の党のネットワークが存在する。
2019年、スウェーデンの環境活動家であるグレタ・トゥーンベリが火を付けた環境意識は、欧州政治の勢力図に影響力を及ぼし始め、緑の党が支持を伸ばしている[1]。また、同年ドイツでは世論調査で緑の党が初めて首位に立った[2]。 1981年、日本労働党から三橋派が分裂し緑の党を結党。「平和、脱原発、人権、連帯」を掲げる[3]。 1983年、河西善治が西ドイツ(当時)緑の党をモデルとした「東京緑派」(DIE GRUENEN) を結成し、参院選に東京都選挙区より出馬した。河西は人智学(ルドルフ・シュタイナーの思想)の研究家であり、西ドイツ緑の党がミヒャエル・エンデなど多くの人智学者によってできた経緯から、緑の党の思想を日本に広めることに注力していた。比例区ではMPD・平和と民主運動(後の市民の党)への投票を呼び掛けた。また、重松九州男の日本世直し党も「日本版緑の党」を名乗っていた。 1986年、元第四インターナショナル活動家太田竜らが「日本みどりの党」を結成。太田はその後「みどりの党」離党、「日本みどりの連合」結党を経て、「みどりといのちのネットワーク」への再統合を行った。「みどりといのちのネットワーク」は大石武一の推薦を受けた。同年、水の浄化を主な政策とする環境党が結成される。 1989年、山本コウタロー、北沢杏子、門野晴子、円より子、田嶋陽子らを中心に環境保護とフェミニズムを掲げる「ちきゅうクラブ」が、また、作家の今野敏や元三重大学教員の坂下栄、反原発運動・環境保護運動の活動家らを中心に「原発いらない人びと」が結成された。第四インターナショナル系や共産主義労働者党(後の自治・連帯・エコロジーをめざす政治グループ・蒼生)など一部の勢力は「原発いらない人びと」を支援した。この年の参議院選挙では、3派の統合を試みるも、名簿順序をめぐって折り合いがつかず、分裂選挙に。結果3派合わせて60万票を獲得するも議席の獲得はならなかった。 1992年の参院選では、「みどりといのちのネットワーク」「ちきゅうクラブ」「原発いらない人びと」を統合した環境政党「希望」(代表は藤本敏夫)が立候補した。 1995年、農業問題を中心とするみどりといのちの市民・農民連合と、平和・市民から路線対立で分裂した憲法みどり農の連帯が結成される。「希望」党員は農民連合と連帯に分裂。 その後、地方政治においては市民運動出身の無所属地方議員の連絡組織「虹と緑の500人リスト運動」、新潟県の地域政党「緑・にいがた」(旧「市民新党にいがた」)などが結成される。 1997年、荒岱介らの「戦旗・共産主義者同盟」が「BUND」と改称。共産主義路線を放棄し、環境保護路線への転換を表明する。2008年には「アクティオ・ネットワーク」と改称。 1998年頃より保守リベラル政党であった新党さきがけが環境政党として再出発を表明。後に代表となった中村敦夫は黒岩秩子と共に院内会派「さきがけ環境会議」結成。2002年、「みどりの会議」に改称。三木武夫・三木睦子夫妻の長女で無所属の参院議員だった高橋紀世子と中村が所属。2004年の解散後は「みどりのテーブル」に活動を引き継ぐ。 2007年、みどりのテーブルが中心となって参院東京選挙区に「無所属共同候補」として川田龍平を擁立し、当選する。また、司法書士の黒田恒一が環境社会主義党を結成して参院選に出馬することを表明したが、直前で出馬を辞退した。 2008年、川田龍平は、みどりのテーブルから離脱した(その後、2009年にみんなの党に入党)。みどりのテーブル・虹と緑が合流してみどりの未来を結成し、「みどり」系の地域政党・地域政治団体との連携を進めながら、地方政治および国政において「みどりの政治」の実現を目指すことを表明した。 2009年5月、元自民党員の長友清冨がNPO「森と海の恋人」を母体に「森海党」を結成。同年の衆院選で熊本県第5区から出馬するも落選。のち森海党は「日本森海党」に改名し、長友は2011年の人吉市長選や錦町議会議員選に出馬したが、いずれも落選している。 2012年2月には前述のみどりの未来が緑の党を結成することを発表する一方で、思想家中沢新一・宮台真司らが「グリーンアクティブ」を立ち上げた[4]。グリーンアクティブの政治部門は「日本独自のエコロジー政党」である「緑の日本」を名乗り、マエキタミヤコらが所属する。
日本での試み