総統
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ヒトラー自身は「10年もすればフューラーという呼称は非人格的性格を持つようになるだろう」、「『首相』の代わりの公式名として『総統』という称号を使うことになっても私はいっこうにかまわない」、「つまらない人間が組織の『長』に選ばれることはありうるが、誰にでも総統の称号がふさわしいわけではない」[12] と、通常の官職と同一視していない。結局、フューラーやその権限を定義する法律は、最後まで成立しなかった[20]

これにより、国家の枠外にあり、国家を超えるフューラー(総統)が国家の上に立ち、憲法体制を支配するという体制が完成した[18]。この手続きは、8月2日のヒンデンブルクの死とともに発効した[18]。しかし、ヒトラーはこの措置の正統性を問う投票を要求した[18]。総統官邸長官ハンス・ハインリヒ・ラマースが全く不必要な措置としているように、投票はヒトラーの法的地位に関して影響を及ぼすものではなかったが[18]。ヒトラーは「ドイツ国の新たな憲法体制を生み出す権限を、先に私に与えられた全権から導き出すことを拒否しなければならない。否、それは民族自らが決定するものでなければならない」として、自らの地位を民族からの委託に基づくものであることを示そうとした[17]

8月3日、ドイツ国の国家元首に関する民族投票(ドイツ語版)[21]を行うことを公布した[22]。またこの日の声明で「ライヒ大統領」の称号は、偉大なるヒンデンブルクと不可分になったとして、みずからは公私ともに従前通り「指導者兼ドイツ国首相」と呼ばれることを望むとした。8月19日に行われた投票は、投票率は95.7%、うち89.9%が賛成票を投じ、ヒトラーの地位は盤石なものとなった。翌日、ヒトラーは「ドイツ国は今日ナチス党の手の中にある」「民族同胞諸君の投票により全世界に向かって国家と運動の統一が表明されたのだ」という布告を一切の肩書き無しで行った[23]

これ以降、フューラー(総統)の使用が浸透すると、首相の称号は重視されなくなり、1939年8月以降、公文書では単にフューラーと表記することが通例となった[24]。その後、ヒトラー自身も単に名前を署名するだけで、肩書を付けることもなくなっていった。ヒトラーに対しても「総統」、「私たちの(我が)総統(Mein Fuhrer)」といった呼称が用いられ、ヒトラーが三人称で呼びかけられることはなくなった[12]

第二次世界大戦中の1941年と1942年に開かれた冬季救済事業の開幕式で、ヒトラーは「神は、1933年1月30日、私に対しライヒの指導を委託した」と演説し、ヒンデンブルクやドイツ民族がフューラーの権限の源泉であるとは主張しなくなっていた[25]
フューラーによる統治スローガン「Ein Volk Ein Reich Ein Fuhrer(1つの民族、1つの国、1人のフューラー)」が掲示されたナチ党の集会(1938年3月)

ナチ党の定義では、フューラーは民族の中から選ばれるものではなく、民族が必要とする時により高次の存在から与えられるものであるとされた。また、フューラーの権威は、フューラー個人の人格と不可分であるとされた。このため、フューラーは「一回限り」の現象であり、その権威を譲渡するのは不可能であるとされた[26]

フューラーの指導は法規範によるものではなく、「人格指導」によって行われた。大統領や首相が法律に定められた権限を持つのに対し、フューラーの権力は、民族の最終日標や生存法則等の世界観以外の他のいかなるものにも制約されない超法規的なものとみなされた[26]。また、フューラーはいわば無謬の存在であり、民族共同体の唯一の代表者であると定義され、官吏や軍人は、国家や憲法ではなく、フューラー個人への忠誠が求められた(忠誠宣誓[27]。また、政治家の権力は、法や官僚機構によるものではなく、フューラーとの人格的距離によって権力が定まった[28]。ヒトラーは「フューラーの決定は最終決定であり、無条件の服従が求められなければならない」と語っている[29]。この思想はヘルマン・ゲーリング国家元帥が提唱した「フューラーが命令する、私たちは従う(ドイツ語: Fuhrer befiehl, wir folgen))」というスローガンによく現れている。

1933年12月1日には、「党と国家の統一を保障するための法律」が公布され、ナチ党は「ナチズム革命の勝利の結果、国民社会主義ドイツ労働者党がドイツ国家思想の担い手となり、国家と不可分に結ばれた」と定義された。しかしこれは、「党が国家に吸収された」というものではなく、党及び国家は民族のフューラーの手の中にあって、民族の最終目標に奉仕する一つの手段、装置として位置づけられたものである[30]。これはヒトラーが『我が闘争』で「国家は目的ではなく、一つの手段である」と定義したことに附合していた。しかし、実際の現場において党と国家の役割の区分は曖昧であり、その区分はフューラーたるヒトラーの裁量で行われた。このため、党と政府の機関の間で重複する権限をめぐって、勢力争いが頻発した[31]。しかし、ヒトラーはこれらをあえて積極的に是正しないことで、最終的に裁定し得る存在である自身の唯一絶対的な地位を強化した。

フューラーに指導される民族には、フューラーにとって望ましい民族であることが望まれた。このため民族には画一的な思想や行動をとる、強制的同一化(強制的同質化、Gleichschaltung)が求められた。

1942年4月26日、ナチス体制下で最後に開催された国会でフューラーは、「いついかなる状況」においてでも「すべてのドイツ人」に対し、「その者の法的権利にかかわりなく」、「所定の手続きを得ることなく」罰する権利を手に入れたとされた。これによりフューラーは、法律や命令を必要とせず、発言すべてが「法」となる(総統命令)存在となった[32]

ヒトラーは最終的には、一党独裁体制下における支配政党の党首、国家元首、行政の長(首相)、立法の長(全権委任法)、軍の最高司令官(国防大臣の権限も吸収)、陸軍総司令官を兼ね、国家のすべての権限を一手に握ることになった(これをもってヒトラーを大元帥と表記する文献もあるが、彼が軍事上の名誉階級や称号を得たことはない)。ノルベルト・フライ(ドイツ語版)は、このナチズムの統治体制を「Fuhrerstaat(総統国家)」という言葉で表現した。
消滅

大戦末期の1945年4月、ヒトラーは自殺に先立つ遺言書で、大統領兼国防軍最高司令官にカール・デーニッツ海軍元帥、首相ヨーゼフ・ゲッベルス、ナチ党担当大臣(Parteiminister)にマルティン・ボルマン、陸軍総司令官[33]フェルディナント・シェルナー陸軍元帥をそれぞれ任命し、自身が掌握していた権限を分割した。フューラーの後継は指名されず、その地位はヒトラーの死とともに消滅した。
日本語訳

当時の日本では、野党時代のヒトラーは「党首」「首領」などの肩書で呼ばれていた。

1934年にヒトラーが国家元首の権能を吸収した当初は、「大統領」や「首相」の語も用いられたが、やがて「総統」が主に用いられるようになり、しだいに定着した。「総統」の語自体は国家元首就任後間もない1934年8月4日から使用されている[22][34][35]

ヘスの地位「Stellvertreter des Fuhrers」すなわち総統代理も、「副総統」等と訳されるようになった。

ヒトラー死後の日本語の新聞では、大統領に就任したデーニッツの地位を「総統」と訳した事例もあり[36]、その後もデーニッツを第2代総統とする資料もある[37]

戦後、ヒトラーの地位の日本語訳として「総統」が一般的に使用され、国家元首就任以降のヒトラーのみならず、それ以前のヒトラーの地位に対しても「総統」の訳語をあてることが多くなった[38]。この結果として、ヒトラーの地位としての日本語の「総統」は、次のような異なった使い方がされる状況にある。
ナチ党の用語であり、ナチ党の権力掌握後はドイツ国においても用いられた、ナチ党およびドイツ民族の最高指導者を示す「Fuhrer」の訳語。この形式では政権獲得後のヒトラーの肩書きは「総統兼首相」「総統兼宰相」などと表記される[22][39][40][41]。日本のナチス研究者のうち、平井正は野党時代と国家元首時代の「Fuhrer」は訳を区別するべきであると考えているが、場合によっては野党時代でも「総統」を用いており[42]村瀬興雄は、大統領権限吸収以前のFuhrerを「指導者」、以後は「総統」と訳を区別している。

1933年1月以降の、ドイツ国の首相であるとともにナチ党の「Fuhrer」であるヒトラーの地位[43][44]

1934年以降の、ドイツ国の国家元首であり、首相であり、ドイツ国(ひいてはドイツ民族)および支配政党であるナチ党の「Fuhrer」であるヒトラーの地位[45][46]


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