総統
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イタリアの総統(Duce)は、イタリア王国ベニート・ムッソリーニの政治的地位・称号を指す[47]統領統帥と訳される場合が多い。

イタリア語では「指導者」を意味する「Duce(ドゥーチェ、ドーチェ)」という称号が古くから存在した。これはラテン語の用語・官職名のdux(ドゥクス)に由来し、duca(ドゥカ、公爵)やdoge(ドージェ、ヴェネツィア共和国統領)と同じ語源である。近代ではイタリア三英傑の一人である革命家ジュゼッペ・ガリバルディを指し、またサヴォイア家による国家や軍に対する統帥権を意味した。

イタリア社会党(PSI)の若手政治家として将来を嘱望されていた政治家ベニート・ムッソリーニは政治的指導者という点からしばしばDuceと呼ばれていた。やがてムッソリーニが第一次世界大戦への従軍を経てファシズム運動を興すと、自身が率いる退役兵団体『イタリア戦闘者ファッシ』の隊員からもDuceの称号で呼ばれる様になる。1921年11月9日、同年の国政選挙で議席を獲得していた『イタリア戦闘者ファッシ』をファシズムを掲げる政党『国家ファシスト党』(PNF)に再編した際、設立者のムッソリーニは党首にあたる書記長に立候補せず、政治家ミケーレ・ビアンキ(英語版)を任命した。表立って権力を握る事を避けた形となるが、ファシズムの精神的指導者という地位は変わらず、Duceという名誉称号が事実上の党指導者としての最高権力を意味する事となった。

1922年10月31日ローマ進軍で無血クーデターに成功したムッソリーニは、王家と議会の承認を得てイタリア王国における首相職である閣僚評議会議長(Presidente del Consiglio dei Ministri)に就任した。首相と同時に内務大臣と外務大臣も兼務しているが、この時点では独裁的な権限を得ている訳ではなく、また多党制による連立政権であった。しかしファシズムによる新体制構築の為、段階的に権限は強化された。1925年1月3日、議会演説で独裁の実施を宣言し、同年の降誕祭12月24日)に首席宰相及び国務大臣(イタリア語版)(イタリア語: Capo del governo primo ministro segretario di Stato)に就任した。同職は「政府の長」である事が強調されるなど従来の首相職より大幅に権限が強化され、内閣の政令に法的拘束力が与えられた事と合わせて議会の権力は大きく後退した。続いて連立与党の解消や反ファシズム政党の解散命令を行い、1929年3月24日の総選挙で一党制も確立された。

1930年代前半にはムッソリーニの独裁権はほとんど完成していたが、唯一軍に対しては決定的な権限が及んでいなかった。1938年3月30日、対エチオピア戦勝によるイタリア帝国成立に伴い、帝国全体の統帥権として帝国元帥首席(Primo maresciallo dell'Impero)を創設した。ムッソリーニは帝国元帥首席にイタリア王及びエチオピア皇帝となった主君ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と共同就任する事でカルロ・アルベルト憲法制定以来、サヴォイア家宰相として初めて統帥権を分与され、独裁体制は完成された。一方、貴族としての爵位は辞退しているが、代わりに帝国の建国者(イタリア語: Fondatore dell'Impero、フォンダトーレ・デル・インペーロ)という名誉称号をサヴォイア家より与えられている。

ドイツのFuhrerあるいは「指導者兼ドイツ国首相」との違いは、権限を縮小されつつも君主という概念を維持し、また完全な国家元首となる事には慎重な姿勢を見せていた点である。独裁体制における「唯一の弱点」はヒトラーからも懸念され、ムッソリーニも十分理解していたが、敗戦国として既に君主制が廃止されていたドイツと君主制を足掛かりにして独裁を築いたイタリアとでは政治の前提状況が大きく異なっていた。1943年7月25日、連合軍の本土上陸に伴い、宰相からの勇退を求めたエマヌエーレ3世の勅令に従ってムッソリーニは首席宰相及び国務大臣(イタリア語版)から退任し、後任にはピエトロ・バドリオ陸軍元帥が就任した。

しかしDuceの称号は引き続きムッソリーニの権威を意味したままに留め置かれ、幽閉状態から救出された後にヒトラーの要請を受けてイタリア社会共和国(RSI)と共和ファシスト党(RNF)を樹立すると、今回は共和制国家の国家元首となった。その際、国家元首の称号として正式にDuceが使用され、「Duce della Repubblica Sociale Italiana(イタリア社会共和国総統)」とされ、これまでの名誉称号から正式な役職となった[48]
スペイン「カウディーリョ」も参照

スペインの総統は、スペインの国家元首フランシスコ・フランコの称号を指す[49][50]

フランコの肩書きは時代によって変化するが、一般にスペイン語で「Caudillo(カウディーリョ)」と呼ばれていた。caudilloは、ドイツ語のFuhrer、英語のleaderに相当する語で、本来は頭目や親分を意味するが、統領とも訳され、スペインほかイスパノアメリカでは独裁権を握った政治・軍事指導者に対して使用された称号である。フランコの称号としてGeneralisimo(ヘネラリッシモ)もあるが、これは general(将軍)に指大辞の‐isimoがついた語で、将官の上位にあって陸海空の三軍を統括する地位を意味し、大元帥総帥、総司令官などと訳される。

スペイン内戦で反乱軍(英語版)内の指導権を確立したフランコは、1936年10月1日ブルゴスにおいて、反乱軍の総帥(Generalisimo、ヘネラリッシモ)に指名され、反乱軍側の国家主席(Jefe de Estado、ヘーフェ・デ・エスタード)に就任した。その際、フランコは国家元首としての称号を(el Caudillo、エル・カウディーリョ)と定めた。以後、フランコは軍隊の総司令官としてはヘネラリッシモ、国家元首としてはカウディーリョと呼ばれることとなる[51]。フランコ政権は、1938年1月30日に内閣制度を導入し、フランコは国家元首兼首相となった。その後、1939年3月27日に反乱軍は首都マドリードに入城、31日にはスペイン全土が制圧され、4月1日フランコは内戦終結宣言を発した。こうして名実共に独裁体制を確立したフランコは、さらに1947年、「王位継承法」を制定し、スペインを「王国」とすること、スペイン国の国家元首をフランコ総統とすること、また、フランコが終身の統治権を有し、後継の国王の指名権を持つことなどを定めた。この「王位継承法」は7月16日の国民投票によって成立し、フランコは終身国家元首の地位に就いた。

フランコ総統は1969年、自分の後継者として元国王アルフォンソ13世の孫フアン・カルロスを指名した。その後1973年6月に首相を辞任、1975年11月に82歳で死去した。その2日後、フアン・カルロス1世は国王に即位した。それまでの言動から独裁体制を継承すると思われていた国王であったが、予想に反して民主主義体制の整備を急ぎ、1978年12月、国王の権限を儀礼的なものに限定して権力分立を定めた憲法を、国民投票による承認を受けた上で公布した。こうして、スペインの独裁時代は幕を閉じ、「総統」の称号も消滅した。
クロアチア

クロアチア独立国では、独裁者アンテ・パヴェリッチがPoglavnik(ポグラヴニク)の称号を名乗っており、これが国家指導者または総統と訳される。建国当初、同国の国家元首は国王トミスラヴ2世(在位 1941年?1943年)だったが、これは形式上の地位にとどまり(国王は終始イタリアに滞在し、ついにクロアチアに足を踏み入れることがなかった)、ポグラヴニクであるパヴェリッチが事実上の国家元首であった。さらに、1943年にはトミスラヴ2世が退位したため、パヴェリッチはポグラヴニクの称号のもとに名実ともに国家元首となった。とはいうものの、クロアチア独立国自体がナチス・ドイツの保護下にある傀儡国家であった。
ルーマニア

ルーマニア王国では1940年、イオン・アントネスクが、国民投票の結果「conduc?tor」[52]に就き、1944年にルーマニア革命で失脚するまで、ルーマニアの事実上の独裁者となった。conduc?torは英語のleaderに相当するルーマニア語であり、国家指導者と訳すのが通例であるが、総統と訳す場合もある。ただし、ルーマニア王国には国王がいたため、アントネスクの地位は国家元首ではない。

戦後の社会主義政権ニコラエ・チャウシェスクは、1965年にルーマニア共産党書記長に就任し、1967年に国家評議会議長(元首)に就任し、1974年からは新設した大統領 (prezident) に自ら就任したが、国民の間ではかつての独裁者アントネスクの称号である「conduc?tor(総統)」と陰では呼ばれるようになっていた。


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