総統
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また、フューラーの権威は、フューラー個人の人格と不可分であるとされた。このため、フューラーは「一回限り」の現象であり、その権威を譲渡するのは不可能であるとされた[26]

フューラーの指導は法規範によるものではなく、「人格指導」によって行われた。大統領や首相が法律に定められた権限を持つのに対し、フューラーの権力は、民族の最終日標や生存法則等の世界観以外の他のいかなるものにも制約されない超法規的なものとみなされた[26]。また、フューラーはいわば無謬の存在であり、民族共同体の唯一の代表者であると定義され、官吏や軍人は、国家や憲法ではなく、フューラー個人への忠誠が求められた(忠誠宣誓[27]。また、政治家の権力は、法や官僚機構によるものではなく、フューラーとの人格的距離によって権力が定まった[28]。ヒトラーは「フューラーの決定は最終決定であり、無条件の服従が求められなければならない」と語っている[29]。この思想はヘルマン・ゲーリング国家元帥が提唱した「フューラーが命令する、私たちは従う(ドイツ語: Fuhrer befiehl, wir folgen))」というスローガンによく現れている。

1933年12月1日には、「党と国家の統一を保障するための法律」が公布され、ナチ党は「ナチズム革命の勝利の結果、国民社会主義ドイツ労働者党がドイツ国家思想の担い手となり、国家と不可分に結ばれた」と定義された。しかしこれは、「党が国家に吸収された」というものではなく、党及び国家は民族のフューラーの手の中にあって、民族の最終目標に奉仕する一つの手段、装置として位置づけられたものである[30]。これはヒトラーが『我が闘争』で「国家は目的ではなく、一つの手段である」と定義したことに附合していた。しかし、実際の現場において党と国家の役割の区分は曖昧であり、その区分はフューラーたるヒトラーの裁量で行われた。このため、党と政府の機関の間で重複する権限をめぐって、勢力争いが頻発した[31]。しかし、ヒトラーはこれらをあえて積極的に是正しないことで、最終的に裁定し得る存在である自身の唯一絶対的な地位を強化した。

フューラーに指導される民族には、フューラーにとって望ましい民族であることが望まれた。このため民族には画一的な思想や行動をとる、強制的同一化(強制的同質化、Gleichschaltung)が求められた。

1942年4月26日、ナチス体制下で最後に開催された国会でフューラーは、「いついかなる状況」においてでも「すべてのドイツ人」に対し、「その者の法的権利にかかわりなく」、「所定の手続きを得ることなく」罰する権利を手に入れたとされた。これによりフューラーは、法律や命令を必要とせず、発言すべてが「法」となる(総統命令)存在となった[32]

ヒトラーは最終的には、一党独裁体制下における支配政党の党首、国家元首、行政の長(首相)、立法の長(全権委任法)、軍の最高司令官(国防大臣の権限も吸収)、陸軍総司令官を兼ね、国家のすべての権限を一手に握ることになった(これをもってヒトラーを大元帥と表記する文献もあるが、彼が軍事上の名誉階級や称号を得たことはない)。ノルベルト・フライ(ドイツ語版)は、このナチズムの統治体制を「Fuhrerstaat(総統国家)」という言葉で表現した。
消滅

大戦末期の1945年4月、ヒトラーは自殺に先立つ遺言書で、大統領兼国防軍最高司令官にカール・デーニッツ海軍元帥、首相ヨーゼフ・ゲッベルス、ナチ党担当大臣(Parteiminister)にマルティン・ボルマン、陸軍総司令官[33]フェルディナント・シェルナー陸軍元帥をそれぞれ任命し、自身が掌握していた権限を分割した。フューラーの後継は指名されず、その地位はヒトラーの死とともに消滅した。
日本語訳

当時の日本では、野党時代のヒトラーは「党首」「首領」などの肩書で呼ばれていた。

1934年にヒトラーが国家元首の権能を吸収した当初は、「大統領」や「首相」の語も用いられたが、やがて「総統」が主に用いられるようになり、しだいに定着した。「総統」の語自体は国家元首就任後間もない1934年8月4日から使用されている[22][34][35]

ヘスの地位「Stellvertreter des Fuhrers」すなわち総統代理も、「副総統」等と訳されるようになった。

ヒトラー死後の日本語の新聞では、大統領に就任したデーニッツの地位を「総統」と訳した事例もあり[36]、その後もデーニッツを第2代総統とする資料もある[37]

戦後、ヒトラーの地位の日本語訳として「総統」が一般的に使用され、国家元首就任以降のヒトラーのみならず、それ以前のヒトラーの地位に対しても「総統」の訳語をあてることが多くなった[38]。この結果として、ヒトラーの地位としての日本語の「総統」は、次のような異なった使い方がされる状況にある。
ナチ党の用語であり、ナチ党の権力掌握後はドイツ国においても用いられた、ナチ党およびドイツ民族の最高指導者を示す「Fuhrer」の訳語。この形式では政権獲得後のヒトラーの肩書きは「総統兼首相」「総統兼宰相」などと表記される[22][39][40][41]。日本のナチス研究者のうち、平井正は野党時代と国家元首時代の「Fuhrer」は訳を区別するべきであると考えているが、場合によっては野党時代でも「総統」を用いており[42]村瀬興雄は、大統領権限吸収以前のFuhrerを「指導者」、以後は「総統」と訳を区別している。

1933年1月以降の、ドイツ国の首相であるとともにナチ党の「Fuhrer」であるヒトラーの地位[43][44]

1934年以降の、ドイツ国の国家元首であり、首相であり、ドイツ国(ひいてはドイツ民族)および支配政党であるナチ党の「Fuhrer」であるヒトラーの地位[45][46]

イタリア「ドゥーチェ」も参照

イタリアの総統(Duce)は、イタリア王国ベニート・ムッソリーニの政治的地位・称号を指す[47]統領統帥と訳される場合が多い。

イタリア語では「指導者」を意味する「Duce(ドゥーチェ、ドーチェ)」という称号が古くから存在した。これはラテン語の用語・官職名のdux(ドゥクス)に由来し、duca(ドゥカ、公爵)やdoge(ドージェ、ヴェネツィア共和国統領)と同じ語源である。近代ではイタリア三英傑の一人である革命家ジュゼッペ・ガリバルディを指し、またサヴォイア家による国家や軍に対する統帥権を意味した。

イタリア社会党(PSI)の若手政治家として将来を嘱望されていた政治家ベニート・ムッソリーニは政治的指導者という点からしばしばDuceと呼ばれていた。やがてムッソリーニが第一次世界大戦への従軍を経てファシズム運動を興すと、自身が率いる退役兵団体『イタリア戦闘者ファッシ』の隊員からもDuceの称号で呼ばれる様になる。1921年11月9日、同年の国政選挙で議席を獲得していた『イタリア戦闘者ファッシ』をファシズムを掲げる政党『国家ファシスト党』(PNF)に再編した際、設立者のムッソリーニは党首にあたる書記長に立候補せず、政治家ミケーレ・ビアンキ(英語版)を任命した。表立って権力を握る事を避けた形となるが、ファシズムの精神的指導者という地位は変わらず、Duceという名誉称号が事実上の党指導者としての最高権力を意味する事となった。

1922年10月31日ローマ進軍で無血クーデターに成功したムッソリーニは、王家と議会の承認を得てイタリア王国における首相職である閣僚評議会議長(Presidente del Consiglio dei Ministri)に就任した。首相と同時に内務大臣と外務大臣も兼務しているが、この時点では独裁的な権限を得ている訳ではなく、また多党制による連立政権であった。しかしファシズムによる新体制構築の為、段階的に権限は強化された。1925年1月3日、議会演説で独裁の実施を宣言し、同年の降誕祭12月24日)に首席宰相及び国務大臣(イタリア語版)(イタリア語: Capo del governo primo ministro segretario di Stato)に就任した。同職は「政府の長」である事が強調されるなど従来の首相職より大幅に権限が強化され、内閣の政令に法的拘束力が与えられた事と合わせて議会の権力は大きく後退した。続いて連立与党の解消や反ファシズム政党の解散命令を行い、1929年3月24日の総選挙で一党制も確立された。

1930年代前半にはムッソリーニの独裁権はほとんど完成していたが、唯一軍に対しては決定的な権限が及んでいなかった。1938年3月30日、対エチオピア戦勝によるイタリア帝国成立に伴い、帝国全体の統帥権として帝国元帥首席(Primo maresciallo dell'Impero)を創設した。


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