それに対し『日本書紀』にある改新の詔の文書は、編纂に際し書き替えられたことが明白になり、大化の改新の諸政策は後世の潤色であることが判明、『日本書紀』による編年は、他の史料による多面的な検討が必要とされるようになった[8]。このことから、令制国の成立を大化の改新からそう遠くない時期とした従来の定説は崩れ、多くの令制国が確実に成立したのは、大宝元年(701年)に制定された大宝律令からといわれる。
このように、現在では一般的に国(令制国)の成立は大宝律令制定によるとされるようになった。だが、上総国・下総国についてはこれとは別の見方がある。下総国については『常陸国風土記』に香島郡(鹿島郡)の建郡について、「大化5年(649年)に、下総国海上国造の部内軽野以南の一里と[注 5]、那賀国造の部内寒目以北の五里を別けて神郡を置いた」とあり、孝徳期以前に成立していたことがうかがえ、また『帝王編年記』では上総国の成立を安閑天皇元年(534年)[10]としており、語幹の下に「前、中、後」を付けた吉備・越とは異なり、毛野と同じく「上、下」を上に冠する形式をとることから、6世紀中葉の成立とみる説もある[注 6][11]。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ a b 大宝4年(704年)に、全国の国印が一斉に鋳造された際、改められたものと考えられている(『日本古代史地名事典』「上総国」の項)。
^ 武社国には、6世紀中葉から7世紀初頭にかけ、小池・芝山古墳群、大堤・蕪木古墳群、胡麻手台古墳群、板附古墳群を造営した4つの勢力があったと考えられている(『東国の古墳と古代史』「上総・駄ノ塚古墳」の項)。
^ 他に「総」の語源として、フサグ(塞)の語幹で「何かをさえぎる地」のこと、ボサの転で「雑草などの茂み、やぶ」の意、フシ(節)の転で「高所」のこと、クサ(朽、腐)の転で「崩壊地形」を示すなどの説があるが、あくまでも仮の説である(『地名用語語源辞典』「ふさ」の項)。
^ 藤原京から木簡が出土した当初は、「上挟国阿波評松里」と解読されていたが、その後の研究で「上?国阿波評松里」に解読し直された(挟→?)。
^ 下総国海上国造の後裔を称する他田日奉神護が、正倉院文書に遺した「他田日奉部直神護解」には、神護の祖父忍が孝徳期に少領であったことが書かれており、香島評立評に際してこれに同意したことがうかがえる(『古代豪族と武士の誕生』「乙巳の変と評制の施行」の項)。
^ ただし、令制国としての上総国・下総国の成立は、他の令制国と同じく律令制の確立によるものとされる。
出典^ 『日本大百科全書』「総国」の項
^ a b 『千葉県の歴史』「千葉と房総三国の名の由来」の項
^ 長狭国造は『古事記』・千葉国造は『日本後紀』より、他の国造は『旧事本紀』の「国造本紀」より
^ 『古代東国の風景』「大和王権と房総」の項
^ a b 『日本古代史地名事典』「上総国」の項
^ 『古代地名語源辞典』「武蔵」の項
^ 『関東学をひらく』「政商・漆部伊波のこと」の項
^ a b 『藤原京』「藤原京出土の木簡が、郡評論争を決着させる」
^ 『千葉県の歴史 通史編 古代2』第1編第2章「房総三国の成立」
^ 『帝王編年記』巻7 安閑天皇元年(101頁)
^ 『古代地名語源辞典』「総」の項
参考文献
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石井進他・編 『千葉県の歴史』 山川出版社 2000年。ISBN 4-634-32120-3
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楠原佑介他・編『地名用語語源辞典』 東京堂出版 1983年。ISBN 4-490-10176-7
森公章・著『古代豪族と武士の誕生』 吉川弘文館 2012年。ISBN 978-4-642-05760-8