網走番外地_(東映)
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岡田は三國に対し『天草四郎時貞』の興業的失敗の責任の一端があると考えていたとみられている[5][注釈 3]

三國主演の可能性がなくなったことから、企画はそのままの形で使えなくなった。そこで目をつけたのが伊藤一が1956年に出版した実録物の小説網走番外地』であった。本作は著者が1950年代前半に網走刑務所で1年数か月服役した経験をもとに書いた小説で、1959年に日活で原作をほぼ忠実に映画化した同名の映画『網走番外地』が封切られていたが、東映版は、三國が持ちこんだ企画にあてはまるプロットを自在にふくらませただけで、伊藤一の小説からは題名を拝借しただけであった。本作のクレジットには三國連太郎の名はない。

一方、石井輝男は「企画は今田智憲東京撮影所長(当時)です」と述べている[6][7][8]。1965年の年始め、今田が石井に「『網走番外地』って、すごくいい歌があるんだ。網走刑務所の受刑者の間で歌い継がれてるらしいんだけど、これで何かできないだろうか」と、話を持って来た[6][8][9]。石井は「実はそのときすでに、私の前作『顔役』でその歌を使っていたんですが、歌の好きな今田所長は別のところで知ったのかもしれません。日活も映画化した原作を読みましたが、これはかなり甘い話で気に入らなかった。新東宝時代から私が温めていた『手錠のまゝの脱獄』をヒントにした話をこの企画にかぶせたら、今田所長もノッてくれたので脚本を書いたんです」と話している[6][9][10][11]

本作の当初の企画者であった三國連太郎は、自らが興した独立プロで自身が監督した『台風』の配給を東映に拒否され、それでも契約関係にあった東映作品に出演していたが、主力映画が任侠映画路線へと傾斜していく東映には自分の出番はないと思い、本作公開の翌年には東映との契約関係を解消し、完全にフリーとなった[4]
脚本

当初の企画がギャング物の延長であったことから、東映東京撮影所にギャング物というドル箱を打ちたてた石井輝男に白羽の矢が立った。石井は、かねてより温めていたスタンリー・クレイマー監督の米映画手錠のまゝの脱獄』(1958年)を巧みに換骨奪胎して、原作の題名を生かしながら日本版『手錠のまゝの脱獄』といえる脚本を書いた[6][9][12][13]。石井は最初から高倉健の主役を想定してホンを書いたと話している[13]

編成段階で2本立て興行の添え物の企画に転じた[10]。併映の京都撮影所製作による『関東流れ者』はカラーだったが、本作も最初カラーで企画されながら「主役が脱獄囚であり、ヒロインにあたる女優が登場せず、ラブロマンスもないため興収を見込めない(だから当たりそうもない)」という理由で、石井が北海道のロケハンより戻ってきたときには「予算はカット、添え物の白黒映画にする」と決定した[10]。石井自身は白黒にすると言われたのは、北海道のロケハンより前の会議に於いてで[13]、「それで頭に来て、予算なんか構わずロケハンを半月以上やってやった」「ほとんど雪なんだから、どうせカラーにしても白と黒しかないから。万事上手くいきました」などと述べている[13]

高倉は「『網走番外地』は、はじめはカラーの予定だったんだけど、美人が出ないような映画じゃ人も入らんから白黒でいい、と岡田所長に言われた。本当に金のない現場だった。ある晩無性に腹が立って、石井監督の部屋に直談判に行ったら、監督は布団を被って寝てらしてね。割れた窓から雪が吹き込んでいて、布団から出ている監督の頭に白く積もっていた。それを見た瞬間、何も言えなくなった。もし、あの時、監督の部屋のあの光景を見ていなければ、今はないと思う」と証言している[12]
キャスティング

主演には石井とのコンビ作を連発していた高倉健を起用した。高倉健は最初、出演オファーにゴネていて、監督の石井と岡田茂取締役(当時)は「主演は丹波哲郎でいく」と打ち合わせしていたといわれる[14]。また、「何とかカラーで撮らせてくれ」と執拗に迫った高倉健に対し、大川博社長は「文句があるなら主役を梅宮辰夫に変えるぞ!」と言い放ったという[7]

岡田が東映京都所長に転任後、東映東京は青春路線を展開し[15][16]舟木一夫西郷輝彦ら、人気歌手に高額のギャラを払って、映画の主役に起用した[17]。これに腹を立てた東映の生え抜きスター高倉が「今年で11年目、これまでは、何も言わずに会社に尽くしてきた。少しは言わせてもらう。どこの馬の骨か分からない"青二才"の歌手に200万円なんて払っているのにオレのギャラは安すぎだ」などと自身の出演料1本90万円から鶴田浩二と同額の150万円にギャラアップを要求した[17][18][19]。高倉は1964年3月に東映との契約が切れたままになっていた[17][18]。本作のクランクインは、1965年2月15日を予定していたが[17]、東映幹部から色よい返事がなかったことから[17][19]、高倉は話し合いを中断し、江利チエミハワイに行った[17][18]。これは同じように所属球団との年俸闘争が上手くいかず、海外逃避した某プロ野球選手を見習ったものだった[17]。たまりかねた大川博社長が高倉を呼び出し「とにかく高倉君にとって悪いようにはしない。『網走番外地』には出てくれ」と高倉に頼み[18]、本作の撮影に入った[17][18]

撮影に入る前に鬼寅役に抜擢した嵐寛寿郎が、石井監督の自宅を突然訪ねて来たため[13]、石井は「何か重大なことかな?」とビビったが、嵐は「私の役ね、これ当りまっせー!この映画いただきました」と言った[13]。大スターの予言に石井もすっかり自信がついたという[13]

石井監督は意見を言わない役者が好き[13]


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