1863年(文久3年)、吉兵衛は小野浜において将軍徳川家茂に謁見した。家茂は吉兵衛に対し小野浜近辺を日米修好通商条約に基づく開港場とすることの是非について問い、吉兵衛はこの上ない適地であると回答した[11][12]。謁見を仲介した勝海舟は吉兵衛が船蓼場を失った経緯に同情し、所有権を取り戻すことができるよう便宜を図ると約束したが、実現しなかった[11]。
1867年(慶応3年)、兵庫港(現在の神戸港)開港に伴い、船蓼場は江戸幕府に接収され東運上所(税関)の船入場として利用されることになった。それに伴い10年以内に借金を返還すれば船蓼場を返還するという神戸村との約束は消滅した[13][14]。1869年(明治2年)9月5日、吉兵衛は死去した。晩年は私財を投じて造った船蓼場が接収されたことを嘆き、死の間際も船蓼場のことを口にしていたという[15]。
1968年、かつて船蓼場があった場所の南に吉兵衛の顕彰碑が建立された[16]。
脚注[脚注の使い方]^ a b c 黒部1976、221頁。
^ a b 鳥居1982、160頁。
^ a b 鳥居1982、161頁。
^ a b 鳥居1982、159-162頁。
^ 鳥居1982、161-163頁。
^ 鳥居1982、163-166頁。
^ 黒部1976、221-222頁。
^ a b c 黒部1976、222頁。
^ a b 鳥居1982、168頁。
^ 黒部1976、222-223頁。
^ a b c 黒部1976、223頁。
^ 鳥居1982、169頁。
^ 黒部1976、224頁。
^ 鳥居1982、170-171頁。
^ 鳥居1982、171頁。
^ 田辺(編著) 2010, p. 44.