継体天皇
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注釈[ソースを編集]^ 先帝とは2親等以上離れて即位した最初の天皇は仲哀天皇(先帝は叔父・成務天皇(父・日本武尊の弟))とされている。
^ 『古事記』では485年。
^ 上宮記では、弥乎國高嶋宮(みをのくにのたかしまのみや)。
^ 「天皇(武烈)既に崩りまして、日続知らすべき王無かりき。故、品太(応神)天皇の五世孫、袁本杼(をほど)命を近淡海(ちかつおうみ)国より上り坐しめて、手白髪(たしらか)命に合わせて、天下を授け奉りき。」[3]
^ 『日本書紀』によれば、「妊婦の腹を切り裂いて胎児を見た」、「人を木に登らせて弓矢で射落とした」、「池に人を入れて矛で突き殺した」など数多くの悪行が書かれており、「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず(悪い事ばかりを行い、一つも良いことを行わなかった)」と評されている。
^ 上??(おこしたり)、下??(あるしたり)、娑陀(さた)、牟婁(むろ)の四県。これが現代のどの地方に当たるかについては、全羅南道にほぼ相当するという説と、南東部であるという説が存在する[8]
^ 後の欽明朝初期にこの四県割譲が問題となり、責任を問われた金村が失脚している。
^ この「凡牟都和希王」を「ホムツワケ」と読んで、応神天皇ではなく垂仁天皇の第一皇子である誉津別命(ほむつわけのみこと)とする説もある。しかし系譜上の始祖には天皇を据えるのが普通であり、母系の始祖には垂仁を据えているにも拘らず父系には書かないというのは不可解である。また父母が共に世代の異なる垂仁の子孫ということになるため、やはり不自然といえる[19]
^ 現在は断絶している王朝、および伝説を含めるのであれば、メネリク1世からハイレ・セラシエ1世に至るエチオピアの皇朝が3000年続いたとされる。
^ 継体天皇は、父彦主人王同様に三尾氏の勢力圏である湖西の高島に基盤を置き、ここを通る北陸道を介して越前三国にも勢力を持った。湖東の息長氏の勢力圏から東山道を介して東国尾張と結び付いた。継体は、応神天皇五世の孫として皇統からは遠い存在ではあったが、代々近江を勢力基盤とし、東国・北陸の勢力を背後に持つことで、畿内勢力に対抗して即位できたのである。近江の地名 その由来と変遷(淡海文庫)2020/6/30京都地名研究会P47
^ 「継体天皇の父、彦主人王は近江の高島の三尾の豪族であった。 それでは、近江の高島郡とはどのような場所であろうか。 琵琶湖の北西部の安曇川の流域にあたり、湖西では広い水田を持つ地域である。それにしても、湖と山地に挟まれたささやかな地域であって、この農業生産をもって天皇になれるほどの力を持てたとは、とうてい考えられない。この地域がそれほどの重要性を持てたことの唯一可能な説明は、この地域が古代における最も有力な製鉄地帯だったことである。近畿地方における最古の製鉄遺跡は八世紀に下るが、それは滋賀県高島郡マキノ製鉄遺跡群である。 (『日本民俗文化体系3 稲と鉄』森浩一「稲と鉄の渡来をめぐって」)。 森浩一氏は、古い時代の製鉄の遺跡自体は認められなくとも、農業生産としてはとるに足らない山間部の製鉄遺跡地帯に、六、七世紀の大群集墳があるので、その経済的基盤として製鉄を考えざるを得ないという。近畿地方における製鉄は、六世紀に始まると森氏は考えている。 この六世紀初頭こそ、継体天皇が出現した時期にあたる。」聖徳太子と鉄の王朝 角川選書 1995/7/1 上垣外 憲一 P16 からの引用文
^ 銅鏡は長年東京国立博物館に寄託されているが、所有者は隅田八幡神社である。
^ 「男弟王」の語は『魏志倭人伝』にも見られ、邪馬台国の女王卑弥呼を佐治した弟を指すために使われている。意富富杼王は忍坂大中姫の兄だが、允恭よりは年下なのでこう記したと考える。
^ 『日本書紀』は、父親の彦主人王を誉田天皇(応神)四世の孫としている。しかし、その系譜については何も記していない。『古事記』は、継体を「品太天皇(応神)五世之孫」と伝えているが、同様にそれ以外の系譜は全く不明である。『釈日本紀』に逸文を残す『上宮記』の系譜では、「凡牟都和希王(応神天皇)─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子 ─ 乎非王 ─ ?斯王(彦主人王) ─ 乎富等大公王(継体天皇)」とされ、『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』では、応神 ─ 隼総別皇子 ─ 男大迹王 ─ 私斐王 ─ 彦主人王 ─ 継体と、釈日本紀の系譜とは、たがいに異なる内容になっているが、記紀では、系譜が全く記されておらず、不明な状態となっている。
^ 『日本書紀』、『古事記』ともに、旧王家の皇女、手白香皇女を娶ったと記している。先代天皇と血縁が非常に遠い継体天皇は、先代天皇の同母姉である手白香皇女を皇后にすることにより、入り婿という形で正統性を獲得した。そのため、継体天皇は大和に入る以前、複数の妃をもち、沢山の子(安閑天皇宣化天皇他)がいたにもかかわらず、手白香皇女との皇子である天国排開広庭尊(欽明天皇)が正式な継承者となった。『古事記』は、「合於手白髮命、授奉天下也」(手白髪命を娶らせて、天下を授けた。)とあるが、他の天皇の記事は、「小長谷若雀命(武烈天皇)、坐長谷之列木宮、治天下」「白髮大倭根子命(清寧天皇)、坐伊波禮之甕栗宮、治天下也」など「天下を治めた」という表現になっており、「天下を授けた」という表現を使っているのは、継体天皇に対してのみである。
^ 『日本書紀』「顕宗即位前紀」にみえる
^ 「神武天皇が東征の途中、筑紫の岡田宮や阿岐の多祁理宮や吉備の高島宮に滞在したことは、六世紀初め、越前(福井県)から現れて皇位を継いだ継体天皇が、大和へ入るまでに、河内の樟葉、山背の筒城、同じく山背の弟国に数年ずつ滞在したことと関係があると思われる。『日本書紀』によると、継体天皇は筒城に七年、弟国に八年滞在しているが、『古事記』にみえる神武天皇は多祁理宮に七年、高島宮に八年滞在する。この一致は偶然とは思われない。神武天皇が大阪平野から直接大和へ入らず、熊野を迂回するのは、継体天皇が越前を出発してから大和へ入るのに、大変手間取っている事に影響されたのではあるまいか。古代の歴史物語である「旧辞」が初めてまとめられたのは、この継体天皇から欽明天皇の頃(六世紀前半ないし中葉)であろうということは、津田左右吉氏の研究以来、学界の定説であるが、神武天皇の物語の骨組みもこの頃に大体出来上がったと思われる。[90]

出典[ソースを編集]^ “謎多き古代天皇、福井に残る痕跡 朝鮮との結びつきも”. 朝日新聞デジタル (2020年4月15日). 2021年2月12日閲覧。
^ a b 網野ほか 1994, p. 82.
^ 『古事記』継体即位記
^ 水谷 2001, p. 73.
^ 日本書紀 継体即位条
^ 『日本書紀』巻第十七、継体天皇元年正月6日条
^http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu7/5inoue.pdf
^ 田中 2009, p. 80.
^ 直木 2009, p. 138.
^ (高槻市教委 2008)P153-154 水野正好による論考。
^ 安本 1999, p. 195.
^ “継体天皇陵と手白香皇后陵”. 『福井県史』通史編1. 福井県 (1993年). 2023年11月13日閲覧。
^ 網野ほか 1994, p. 10.
^ a b 網野ほか 1994, p. 27,98.
^ 網野ほか 1994, p. 83.
^ 網野ほか 1994, pp. 85?86.
^ 網野ほか 1994, p. 86.
^ 網野ほか 1994, p. 87.
^ 水谷 2001, p. 92.
^ 黛 1982.

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