養蚕業、製糸業は明治以降の日本が近代化を進める上で重要な基幹産業であり、殖産興業の立役者のひとつである。ほぼ前後して清(中国)でも製糸業の近代化が欧米資本及び現地の官民で進められた。元々国内での需要と消費が多く、生産者も多かった日中両国での機械化による生産量の増大は、絹の国際価格の暴落を招き、ヨーロッパの絹生産に大打撃を与えた。なお、日本と中国における最初の近代的な製糸工場と言われる富岡製糸場と寶昌糸廠(上海)の技術指導を行ったのは、同じフランス人技師であるポール・ブリュナー (Paul Brunat) であった。日本は米国での営業を新井領一郎に頼った。糸繰り機(市立岡谷蚕糸博物館所蔵)
1909年、日本の生糸生産量は清を上回り、世界最高となった。生糸は明治、大正と日本の主要な外貨獲得源であったが、1929年以降の世界恐慌では、世界的に生糸価格が暴落したため、東北地方などを中心に農村の不況が深刻化した(農業恐慌)。
第二次世界大戦で日本、中国、ベトナムなど東アジア諸国との貿易が途絶えたため、欧米では絹の価格が高騰した。このためナイロン、レーヨンなど人造繊維の使用が盛んになった。戦後、日本の絹生産は衰退し、現在は主に中国からの輸入に頼っている。1998年の統計では、日本は世界第5位の生産高ではあるが、中国、インド、ブラジルの上位3ヶ国で全世界の生産の9割を占め、4位のウズベキスタンも日本を大きく引き離している。2010年時点で、市場に提供する絹糸を製造する製糸会社は、国内では4社のみとなっている。 絹の布をこすりあわせると「キュッキュッ」と音がする。これを「絹鳴り」という。繊維断面の形が三角形に近く、こすり合わせたとき繊維が引っかかりあうためで、凹凸のないナイロン繊維ではこの音はしない。 生糸の検査をおこなうために設けられた。国立生糸検査所は、横浜および神戸にもうけられた。輸出される生糸はかならず国立の検査所でその正量および品位の検査を受けなければならなかった。検査の結果、「格付」がさだめられた。内国使用の生糸は、請求があれば、検査された。 明治28年、横浜および神戸に創設され、生糸検査がおこなわれていたが、明治34年、神戸生糸検査所は閉鎖された。昭和初年には輸出用生糸は大部分品位検査をへて取引されるようになり、昭和2年7月1日からは輸出生糸検査法が実施され、輸出生糸のすべてについて正量検査をおこない、昭和6年、輸出生糸検査法が改正され、7月1日からは生糸格付検査がおこなわれることになった。福井、石川、京都3府県にも地方生糸検査所があり、神戸には市立検査所があって、昭和6年4月から国立になった。
利用
絹織物。絹自体の光沢ある質感を最大限に生かした本しゅす織り(サテン)生地の材料にする。
東アジア、東南アジアでは楽器の弦の材料ともなる。日本でも箏、三味線、琵琶、胡弓、一絃琴、二絃琴などの弦楽器の弦(和楽器では糸と呼ぶ)はすべて絹製である。箏は近年テトロン、ナイロン製が主流となったが、音色では絹が最高である。
中国の帛書、帛画のように文字や絵を書く際の材料になるほか、日本画などでも絵画材料として使われる。それらで描かれた物は絹本と呼ばれる。
カンボジアでは黄金色の絹を採取できる。
縫合糸として用いられる。
利点と欠点
利点
軽い
丈夫
欠点
家庭での洗濯が困難(水に弱いため)
汗によりしみになりやすい
変色しやすい
虫に食われやすい
日光で黄変する
値段が高い
絹鳴り
生糸検査所
その他
江戸末期、前橋商人の活躍によって、日本産生糸はロンドン市場まで知られ、「まえばし」という名は地名としてより、日本産生糸のこととして捉えられた。この生糸による巨万の富を得た在地豪商は、「一加部、二佐羽、三鈴木」と呼ばれる[5]。
ギリシアやローマでは、絹はセル(ser)、セリクム(sericum)と呼ばれ、中国は「絹の地、シルクの国」を意味するセリス(ギリシア語: σηρικ??、中国語: ?里斯)[6][7]、 セリカ(Serica)と呼ばれた[8]。