絶滅収容所
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アメリカ軍のクレイ将軍の陳述によると、人間の皮膚から作られたとされる電灯の笠は、ヤギの皮から作られたものであった[25]マルティン・ボルマンの息子(父と同名)は、あるインタビューにおいて、子供のころに人間の骨で作った椅子や人間の皮膚で装丁した本を見たことがあると証言している[26]。刺青の施された皮膚は時折剥ぎ取られて保存された[27]。しかしながら、これらも実際に現物が発見されている訳ではない。ブーヘンヴァルトでは、ヒバロー族に倣った技術を用いて干し首が作られ、ニュルンベルク裁判でも証拠品とされた。これも現在では現物は存在していない為、真偽は藪の中である[28]

また収容所では Judenseife すなわち死んだユダヤ人の脂肪で作られた石鹸を製造していたという者もいる。しかしこれは戦後になってから広められた噂にすぎないと現在では考えられている。人間の死体から作られる石鹸に関する英語版の記事Soap made from human corpses、および日本語訳(人間石鹸)も参照のこと。
戦後

1944年にソ連軍がポーランドに侵攻すると、収容所は閉鎖され、そこで行われていたことを隠蔽するために、部分的にか全部かがナチスにより解体された。戦後ポーランドの共産主義政権は、収容所の残存部分をもさらに解体し、腐朽してゆくに任せた。かつて収容所であった場所には様々な記念碑が建てられたが、そこで死んだ人のほとんどがユダヤ人であったことに触れたものはあまり見られなかった[要出典]。

1989年にポーランドの共産主義政権が崩壊して以降、収容所跡地に訪れやすくなったこともあり、これらの場所は観光地となった。特に最も有名なアウシュヴィッツ(これはドイツ語での地名であり、ポーランド語ではオシフィエンチム)を訪ねる人の数は増えた。ユダヤ人団体とポーランド人のあいだでは、この場所に何がふさわしいかをめぐる議論が続けられている。ユダヤ人団体は、この地にキリスト教の記念碑を建造することに対して強く反対している。最も有名な例はアウシュヴィッツの十字架 (Auschwitz cross) である。この十字架は、ユダヤ人を根絶するために建造されたアウシュヴィッツ第2収容所ではなく、犠牲者の大半がポーランド人であった同第1収容所の隣に建てられた[要出典]。
ホロコースト否認詳細は「ホロコースト否認」を参照

少なからぬ団体や個人が、ナチスが強制収容所を用いて絶滅政策を実行していたことを否定したり、ホロコーストの方法や規模に疑義を呈したりしている。例えば、ロベール・フォーリソンは1979年に「ヒトラーの『ガス室』なるものは存在しなかった」と主張した。フォーリソンは、ガス室などというものは元来シオニストが考え出したものだという見解をもっている[29]。もう一人の有名な否定派は、イギリスの歴史家デイヴィッド・アーヴィングで、この人物はホロコーストを否認したために、オーストリアで逮捕され懲役刑を宣告された。オーストリアにおいて、ホロコーストを否認することは犯罪行為に当たるためである。詳細は「ホロコースト否認#見直し論の主張と反論」を参照

多くの研究者や歴史家は、生存者や加害者による証言や物的証拠や写真、そしてまたナチス自身による記録などを証拠として、ホロコーストは無かったとする説を否定している。ニツコー・プロジェクト、デボラ・リプシュタット (Deborah Lipstadt) の著作、サイモン・ヴィーゼンタールサイモン・ヴィーゼンタール・センターの活動といった努力や、また数多くのホロコースト関連資料などによって、ホロコースト否認が追跡・解明されている(ホロコースト否認論の考察を参照)。ラウル・ヒルバーグ(『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』 ("The Destruction of the European Jews") の著者)、ルーシー・ダヴィドヴィチ(Lucy Dawidowicz 、『ユダヤ人に対する戦争』 "The War Against the Jews" の著者)、イアン・カーショーその他数多くの著名な歴史家の著書は、ホロコースト否認論を少数の非主流な過激派として斥けている。
収容所関係者の裁判

収容所の幹部や看守など関係者に対する裁判は、殺人などの容疑を実証できず進まなかった。しかし2011年、絶滅収容所は収容者殺害のみを目的とした収容所であり、絶滅収容所で勤務した事実さえ証明すれば殺人幇助罪が成立するとの司法判断が下された。このことから改めて捜査が行われることとなった。2020年代においてもなお高齢の元看守などがドイツ各地で裁判にかけられている[30]
歴史的議論

強制収容所とホロコーストをめぐる現在の歴史的議論は、地元住民の関与についての問題を含んでいる。多くのユダヤ人がキリスト教徒の近隣住民によって救われたとはいえ、それ以外の住民はユダヤ人の苦境を無視したり当局に引き渡したりしているためである。さらに、収容所の多くは地元住民からも見渡せるものであったことや、収容所が地域経済と密接な関係にあったことなども明らかになってきている。例えば、収容所で必要な品は近辺で購入されて収容所まで届けられ、地元の女性は家事を手伝うなど収容所との交流があった。ナチスの将校は地元の居酒屋の常連客となり、囚人から集めた金を支払いに充てるなどしていた。したがって、収容所内で何が起こっていたかは一般人には隠されていたという、収容所近辺の住民による主張の真偽性は、近年の歴史的研究によって徐々に薄らいでいる[31]
脚注[脚注の使い方]^ Doris Bergen, ⇒Germany and the Camp System, part of Auschwitz: Inside the Nazi State, Community Television of Southern bitch California, 2004-2005
^Dictionary definition on laborlawtalk.com
^Diary of Johann Paul Kremer
^ Overy, Richard. Interrogations, p 356-7. Penguin 2002. ISBN 0-14-028454-0
^ 1944年から1945年の間にSSと警察は少なくとも130万人をアウシュヴィッツへ送り込んだと推定される。そのうち110万人が収容所当局によって殺された ⇒[1](アウシュヴィッツの他の施設で殺された人物の数も含む)。
^[2]
^ 1942年3月から12月にかけて、ドイツは約434,500人のユダヤ人と人数不明のポーランド人やロマ(ジプシー)をベウゼツに輸送し、そこで殺戮した。 ⇒[3]
^ ドイツとその協力者は、合計で少なくとも167,000人をSobiborで殺戮した。 ⇒[4]
^ SSと警察は全部で少なくとも152,000人をヘウムノで殺戮した。 ⇒[5]
^ 最近の研究では、マイダネクにおける推定死亡者数を抜本的に下方修正している。ルブリンのPawel P. Reszkaが2005年12月12日付「ガゼタ・ヴィボルチャ」紙で発表した小論 "Majdanek Victims Enumerated" (アウシュヴィッツ=ビルケナウ博物館のサイトに再掲された)によると、ルブリンの研究家トマシュ・クランツが最近この数を論証し、マイダネク博物館はこの数を信頼できると見ている。以前はこれよりも多く見積もられていた。ポーランドのナチス犯罪捜査中央委員会の判事だったZdzislaw Lukaszkiewiczが1948年に出版した本では36万人、また元マイダネク博物館職員Czesaw Rajca博士による1992年の論文では23万5000人と見積もられていた。
^ ホロコースト研究サイト ⇒Yad Vashem websiteの "Maly Trostenets" の項を参照。
^追悼 J.‐C. プレサック
^ Der Holocaust Die Argumente Jurgen Graf P110-P111
^ヤド・ヴァシェムのホームページによると、2007年1月現在、6,004人のポーランド人が表彰されている。
^ Hoss , Rudolf (2005). “I, the Commandant of Auschwitz,” in Lewis, Jon E. (ed.), True War Stories, p. 321. Carroll & Graf Publishers. ISBN 0-7867-1533-2.
^ ハッケンホルト少尉はエンジンを動かそうと懸命に努力していたが、エンジンは回らなかった。ヴィルト大尉がやってきた。私が不運に見舞われたことを彼が気にしているのが見て取れる。ともあれ私は待った。私のストップウォッチは50分を示し、やがて70分を示したが、それでもディーゼルは動かなかった。ユダヤ人たちはガス室の中で待っている。無駄なことだ。彼らのすすり泣きが聞こえ、ファネンシュティール教授が板戸の窓を覗きながら「まるでシナゴーグだ」といった。腹を立てたヴィルト大尉が、ハッケンホルトのウクライナ人助手の顔を12、3回鞭打った。ストップウォッチが2時間49分を示したころ、ようやくディーゼルが動き出した。この時点で、4つの部屋すなわち45立方メートル×4の空間に閉じ込められた750人×4のユダヤ人たちが生きていた。それから25分が経過。少しの間だけ室内を電灯で照らしたため、多くが既に死亡していることが窓から窺われる。28分、生存者は若干名を残すのみとなった。そして32分目に全員死亡。……歯科医たちが金の義歯や橋義歯、歯冠などをカナヅチで打って鍛造していた。ヴィルト大尉もその中にいた。こうしたことが彼の本領であるらしく、私に歯の詰まった缶を見せびらかして彼はいった。「見たまえ、この金の重さを! 昨日と一昨日だけでこれだ。我々が毎日どれだけのものを見つけ出しているか、君には想像もつかんだろうな。ドルにダイヤ、それに金だ。君にもそのうち分かるとも!」 The Nazi Sourcebook: An Anthology of Texts. Routledge. (2002). pp. 354. .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 0415222133 


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