統帥
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明治憲法の軍政や軍令に関する条文には第11条第12条があった[2]

大日本帝国憲法第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

大日本帝国憲法第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム

明治憲法の規定に「軍政」や「軍令」の用語が含まれているわけではなかったが、実際の解釈と運用では、軍政大権については国務大臣の輔弼が必要であるが、軍令大権については軍令機関が補佐し内閣総理大臣や軍部大臣の輔弼の対象から外されていた[2]。具体的には陸軍では陸軍大臣参謀総長に、海軍では海軍大臣軍令部総長に委託され、各大臣は軍政権(軍に関する行政事務)を、参謀総長・軍令部総長は軍令権を担った。

第12条の陸海軍の編制については一般に軍政事項とされたが(常備兵額については対立論あり)、第11条の統帥権については軍令的専権事項であり国務大臣が関与するものではないとされた[2]

統帥権のうち、軍事作戦は陸軍では参謀総長が、海軍では海軍軍令部長(後に軍令部総長と改称)が輔弼し、彼らが帷幄上奏し天皇の裁可を経た後、その奉勅命令を伝宣した(但し明治時代は平時では陸海軍大臣伝宣)。

他に軍政上の動員令・編成令・復員令という奉勅命令があり、通常陸海軍大臣が帷幄上奏し、裁可後彼らが伝宣した。

帷幄上奏と裁可を経たものに、他に、平時編制や戦時編制、参謀本部条例や編成要領、勤務令など帷幄上奏勅令があり、これは通常陸海軍大臣が、陸軍軍事教育関係ではおもに教育総監が、帷幄上奏し裁可後、陸海軍大臣が全軍へ詔勅で公布、ないしは詔勅を用いず軍内へ内達し、執行した。

但し帷幄上奏権そのものは参謀総長と軍令部総長、陸海軍大臣、教育総監が所持していたので、だれが帷幄上奏するかは問題ではなく、誰が伝宣(執行)するかが重要であった。

統帥権の独立によって、奉勅命令や帷幄上奏勅令へ政府や帝国議会は介入できなかった。
問題の表面化

海軍軍令部長加藤寛治大将など、ロンドン海軍軍縮条約の強硬反対派(艦隊派)は、統帥権を拡大解釈し、兵力量の決定も統帥権に関係するとして、浜口雄幸内閣が海軍軍令部の意に反して軍縮条約を締結したのは、統帥権の独立を犯したものだとして攻撃した。

1930年(昭和5年)4月下旬に始まった帝国議会衆議院本会議で、野党の政友会総裁の犬養毅鳩山一郎は、「ロンドン海軍軍縮条約は、軍令部が要求していた補助艦[注釈 6]の対米比7割には満たない」[注釈 7]「軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」と政府を攻撃した。元内閣法制局長官で法学者だった枢密院議長倉富勇三郎も統帥権干犯論に同調する動きを見せた。6月、加藤寛治大将は昭和天皇に帷幄上奏し辞職した。この騒動は、民間の右翼団体(当時は「国粋団体」と呼ばれていた[8])をも巻き込んだ。

条約の批准権は昭和天皇にあった。浜口雄幸首相はそのような反対論を押し切り帝国議会で可決を得、その後昭和天皇に裁可を求め上奏した。昭和天皇は枢密院へ諮詢、倉富の意に反し10月1日同院本会議で可決、翌日昭和天皇は裁可した。こうしてロンドン海軍軍縮条約は批准を実現した。枢密院議長の倉富の意に反しても批准されたのは、法学者の美濃部達吉による浜口首相への助言が大きい。美濃部は、条約の事実上の批准の権限は枢密院にあるが、その枢密院の定員を決める権限は首相にある、と助言し、これが枢密院に伝わると、枢密院も宥和的になり、このやり方が汚いという考えが根底にあって、浜口雄幸狙撃事件につながった。

同年11月14日、浜口首相は国家主義団体の青年に東京駅で狙撃されて重傷を負い、浜口内閣は1931年(昭和6年)4月13日総辞職した(浜口は8月26日に死亡)。幣原喜重郎外相の協調外交は行き詰まった。
その後

明治憲法には「統帥権」という文言で規定されているわけではないため、「統帥権」という造語のもとで恣意的に拡大解釈されたという指摘がある[2]。統帥権干犯問題は政治家が政争の具として利用した側面もあり、それに呼応して軍が政治への介入を深めていったといわれている[2]
脚注
注釈[脚注の使い方]^ 1932年(昭和7年)に陸軍大学校が教本として作成した『統帥参考』(復刻版、田中書店、1983年(昭和58年))には「統帥権ノ独立ヲ保障センカ為ニハ“武官ノ地位ノ独立”ト“其職務執行ノ独立”トヲ必要トス 政治機関ト統帥機関トハ飽ク迄対立平等ノ地位ニ在リテ何レモ他ヲ凌駕スルヲ得サルヘキモノトス」とある。これは統帥権干犯問題の後に作成されたものであるが、「統帥権と行政権の平等性」は軍部の一貫した主張であった。
^ 軍政上の、陸軍大臣による帷幄上奏勅令は、軍の制度や規則を規定した軍事の勅令であって、作戦命令や動員命令などは含まれなかった。明治憲法上は第11条の統帥大権ではなく、第12条の編制大権に属する事項であった。参考文献:永井和『近代日本の軍部と政治』 p313
^ 軍令の方針が間接的には他国との共同出兵を行った場合には外交(例:シベリア出兵)と、兵力・軍備の配置を巡っては財政(例:二個師団増設問題)とも衝突する可能性があった。
^ 大山は日露開戦時の参謀総長、山縣は日露講和時の参謀総長である。
^ 新政策の草案は田中の就任前にほぼ原案が完成しており、政党での政治活動の経験が無かった田中は決定に関与していなかったのである。
^ 「主力艦(戦艦)」に対しての「補助艦」で巡洋艦駆逐艦潜水艦など。
^ ただし、条約での補助艦全体の対米比は6.975であり、0.025少ないだけである。トン数にすると6000トン程度。

出典[脚注の使い方]^ 秦(2006)、11頁。
^ a b c d e f g h i j k l m n o 堀茂. “日露戦争までの我が国の制軍関係”. 杏林大学大学院. 2022年7月11日閲覧。
^ a b “日露戦争関連用語集 3 組織、制度”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2022年7月11日閲覧。
^ 黄文雄『大日本帝国の真実』「統帥権独立」は国を破滅に導いたか 258-262頁
^ 秦(2006)、85-92頁。ただしこの逸話は「太平記」にあるため広く知られてはいたが史実性に関しては異論も多い。坊門清忠も参照。
^ 以下の出典は、戸部(1998)、159-163頁。
^ “第二次外相時代 協調と強硬の狭間”. 外務省. 2022年7月11日閲覧。
^ 「現代史資料」みすず書房

参考文献.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年3月)


纐纈厚『近代日本政軍関係の研究』岩波書店、2005年。ISBN 4-00-022538-3


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