なお、そうした要因は、日露戦争後次第に失われ、軍が自立化することとなる。たとえば、永田鉄山など「藩閥」排除を掲げて結束した陸軍の青年士官たち(日露戦争で最前線に立たず、結果的に温存された世代)が1930年代に入り、陸軍省・参謀本部の中堅幕僚として影響力を強め、さらに一部が太平洋戦争を指導する立場についた。 戦時大本営条例では列席資格は陸海軍将校で文官は認められていなかった[2]。日清戦争の大本営会議には伊藤博文が明治天皇に願い出て特別に参加したが、日露戦争の大本営会議に文官が参加することはなかった[2]。その要因には、戦争指導において陸海軍の作戦立案や実施が専門化・高度化したことや陸海軍統帥の二元化が挙げられている[2]。ただし、明治期には大本営のみで戦争指導が行われたことはほとんどなく、軍人を含む元老を中心とする御前会議で計画の検討や決定が行われた[2]。 御前会議は、天皇と桂内閣の5閣僚(総理・外務・大蔵・陸軍・海軍各大臣)と5元老(伊藤博文・井上馨・大山巌・松方正義・山縣有朋)の計11名で構成された。統帥部は、その決定に従って作戦計画を作成することとされた(政略主導の両略一致)。これについて「参謀総長であった大山巌・山縣有朋[注釈 4]が御前会議に出席している」という反証が出されるが、大山・山縣はこの時に元老の待遇を受けて、国政について諮問を受ける立場にあったために参加を求められたものであり、当時の記録類にも大山・山縣は「元老」として記載されて「参謀総長」という肩書きは書かれていない。こうした待遇を受けていない参謀次長の児玉源太郎や海軍軍令部長の伊東祐亨が御前会議に出席できなかったこともそれを示している。 ワシントン会議に出席するために加藤友三郎海軍大臣が訪米した際に、誰が海軍大臣の代理を務めるのかと言う問題が生じた。加藤は内閣官制第9条を根拠として、原敬内閣総理大臣に代理を要請した。 これに対して山梨半造陸軍大臣をはじめ、田中義一前陸相及び元老山縣有朋は、軍部大臣に文官を任命することは軍人勅諭及び帝国憲法の統帥権の解釈からして不適当であること、陸軍省官制
日露戦争
ワシントン会議における海軍大臣の職務代理
これに対して、政府と海軍が陸軍と協議をした結果、内閣官制によって事務行為の代理については文官でも認められること、ただし、帷幄上奏に関する職務は軍令部長が代行すること、陸軍に対しては今回の件を前例とはしないことで、陸軍もこれを受け入れた。なお、大蔵大臣高橋是清によって参謀本部廃止論が唱えられたのもこの内閣のことであった。
だが、この問題以後、立憲政友会内部に陸軍への反発から、帷幄上奏を廃止して陸軍省官制および海軍省官制を再改正し、文官の軍部大臣就任を認めさせるべきとの主張が出された。後に政友会の内紛から次期総裁として陸軍から田中義一を迎え入れた。田中の就任直後の1925年(大正14年)10月4日に政友会の新政策発表の際に「帷幄上奏の廃止と軍部大臣文官制」の一項が入っていることに気付いて[注釈 5]激怒し、直ちに幹部会を招集してこの部分を留保させて以後党内で統帥権の独立を冒す様な政策は掲げない事を宣言したのである。 統帥権干犯問題とは、明治憲法の第11条(もしくは第12条)の権能が、軍令事項(国務大臣の輔弼が必要でない軍令的専権事項)なのか軍政事項なのか、それとも両者を含むものなのかという解釈をめぐって争われた問題である[2]。1930年(昭和5年)のロンドン海軍条約の批准をめぐり問題が表面化した[7]。 先述のように「軍政」は軍隊の構成や給与など行政にあたる軍隊の維持管理、「軍令」は特に戦争における作戦の指導など軍隊の運用を指す[3]。明治憲法の軍政や軍令に関する条文には第11条と第12条があった[2]。 大日本帝国憲法第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 大日本帝国憲法第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム 明治憲法の規定に「軍政」や「軍令」の用語が含まれているわけではなかったが、実際の解釈と運用では、軍政大権については国務大臣の輔弼が必要であるが、軍令大権については軍令機関が補佐し内閣総理大臣や軍部大臣の輔弼の対象から外されていた[2]。具体的には陸軍では陸軍大臣と参謀総長に、海軍では海軍大臣と軍令部総長に委託され、各大臣は軍政権(軍に関する行政事務)を、参謀総長・軍令部総長は軍令権を担った。 第12条の陸海軍の編制については一般に軍政事項とされたが(常備兵額については対立論あり)、第11条の統帥権については軍令的専権事項であり国務大臣が関与するものではないとされた[2]。 統帥権のうち、軍事作戦は陸軍では参謀総長が、海軍では海軍軍令部長(後に軍令部総長と改称)が輔弼し、彼らが帷幄上奏し天皇の裁可を経た後、その奉勅命令を伝宣した(但し明治時代は平時では陸海軍大臣伝宣)。 他に軍政上の動員令・編成令・復員令という奉勅命令があり、通常陸海軍大臣が帷幄上奏し、裁可後彼らが伝宣した。 帷幄上奏と裁可を経たものに、他に、平時編制や戦時編制、参謀本部条例や編成要領、勤務令など帷幄上奏勅令があり、これは通常陸海軍大臣が、陸軍軍事教育関係ではおもに教育総監が、帷幄上奏し裁可後、陸海軍大臣が全軍へ詔勅で公布、ないしは詔勅を用いず軍内へ内達し、執行した。 但し帷幄上奏権そのものは参謀総長と軍令部総長、陸海軍大臣、教育総監が所持していたので、だれが帷幄上奏するかは問題ではなく、誰が伝宣(執行)するかが重要であった。 統帥権の独立によって、奉勅命令や帷幄上奏勅令へ政府や帝国議会は介入できなかった。 海軍軍令部長加藤寛治大将など、ロンドン海軍軍縮条約の強硬反対派(艦隊派)は、統帥権を拡大解釈し、兵力量の決定も統帥権に関係するとして、浜口雄幸内閣が海軍軍令部の意に反して軍縮条約を締結したのは、統帥権の独立を犯したものだとして攻撃した。 1930年(昭和5年)4月下旬に始まった帝国議会衆議院本会議で、野党の政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎は、「ロンドン海軍軍縮条約は、軍令部が要求していた補助艦 条約の批准権は昭和天皇にあった。浜口雄幸首相はそのような反対論を押し切り帝国議会で可決を得、その後昭和天皇に裁可を求め上奏した。昭和天皇は枢密院へ諮詢、倉富の意に反し10月1日同院本会議で可決、翌日昭和天皇は裁可した。こうしてロンドン海軍軍縮条約は批准を実現した。枢密院議長の倉富の意に反しても批准されたのは、法学者の美濃部達吉による浜口首相への助言が大きい。美濃部は、条約の事実上の批准の権限は枢密院にあるが、その枢密院の定員を決める権限は首相にある、と助言し、これが枢密院に伝わると、枢密院も宥和的になり、このやり方が汚いという考えが根底にあって、浜口雄幸狙撃事件につながった。 同年11月14日、浜口首相は国家主義団体の青年に東京駅で狙撃されて重傷を負い、浜口内閣は1931年(昭和6年)4月13日総辞職した(浜口は8月26日に死亡)。幣原喜重郎外相の協調外交は行き詰まった。
統帥権干犯問題
軍政と軍令
問題の表面化
その後
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