経済安定本部
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太平洋戦争終結後、いったんは行政府による経済統制は終わりを迎えたが、日本は経済的に大混乱に陥ることになった。そのため、幣原内閣においては、経済復興を目指すべくさまざまな方策が模索されることになる。こうしたなか、内閣の直属機関として経済安定本部と物価庁を新設する構想が浮上した[17]1946年8月12日、経済安定本部令(昭和21年勅令第380号)が施行された。これを受け、同日、第1次吉田内閣にて経済安定本部が発足した[18]。経済安定本部の総裁は内閣総理大臣の充て職であるため[19]、初代総裁には吉田茂が就任した[20]。また、庁務を掌理する総務長官には国務大臣が就くことになっており[21][22]、初代総務長官には無任所国務大臣として入閣していた膳桂之助が就任した[20]。同時に、膳は物価庁の初代長官にも就任した。同年12月17日、経済安定本部は『経済危機突破根本方針』を決定し、傾斜生産方式により経済再建を図ることを発表した[18]。翌日、経済安定本部令の一部を改正する勅令(昭和21年勅令第603号)の施行により、総務長官を補佐する次長が置かれることになった。これを受け、初代次長には白洲次郎が就任した[20]

1947年5月3日総理庁の発足にともない、経済安定本部は内閣の部局から総理庁の機関となった。また、総務長官を補佐する副長官が置かれることになった。これを受け、和田博雄が副長官事務取扱に就き、さらに佐多忠雄が副長官心得に就いたが、初めての副長官には永野重雄と田中巳代治が就任した[20]。なお、同年7月4日には、『経済実相報告書』(いわゆる「経済白書」)が初めて発表された[23]1948年4月14日、政務次官の臨時設置に関する法律(昭和23年法律第26号)の施行により、内閣総理大臣や国務大臣が長を務める行政機関であればに限らず政務次官を置くことができるようになった[24]。これを受け、同年4月17日、芦田内閣にて政務次官が置かれることになった。初めての政務次官には、西村榮一藤井丙午の両名が就任した[20]。なお、同年9月30日には、総務長官の栗栖赳夫昭和電工事件により逮捕され、同年10月2日に辞任する騒ぎが起きた。また、同年12月13日には、総務長官(大蔵大臣と兼務)の泉山三六泥酔して女性に抱きついて無理やりキスを迫り、断られると噛みつくなどの猥褻行為を行い、国会キス事件として問題化したことから翌日辞任した。このころより、太平洋戦争で中断していた河水統制事業の復活や促進が叫ばれるようになり、河川改訂改修計画の策定など河川総合開発事業が推進された。

1949年6月1日、国家行政組織法(昭和23年7月10日法律第120号)の施行により、経済安定本部は総理庁の機関から府や省と同等の機関となった[註釈 4]。それにともない、物価庁、経済調査庁は経済安定本部の外局となった。1952年4月1日、経済安定本部の外局である物価庁の廃止にともない、内部部局として物価局が設置された。1952年8月1日、経済安定本部の廃止にともない、総理府の外局として経済審議庁が発足した。ただし、経済安定本部の外局である経済調査庁は、総理府の外局である行政管理庁に統合された。
経済安定本部令

国家行政組織法の施行により府や省と同等の機関となった経済安定本部は、当時の同法第24条において準用する第12条の規定に基づき、機関の命令たる「経済安定本部令」を発した。これは、経済安定本部組織規程(昭和24年経済安定本部令第1号)のように○○省令と同じ並びのものであって、前節の経済安定本部令(昭和21年勅令第380号)とは異なるものである。水先法施行規則(昭和24年運輸省・経済安定本部令第1号)のような共同命令も発せられた。
組織

経済安定本部設置法が施行された1949年6月1日時点での組織構成は、下記のとおりである。
内部部局

総裁官房


連絡部


生産局

動力局

生活物資局

財政金融局

貿易局

建設交通局

附属機関

経済復興計画審議会


資源調査会

経済再建整備審議会

国民食糧及び栄養対策審議会

通貨発行審議会

地方支分部局

地方経済安定局


外局

物価庁

経済調査庁

外資委員会

歴代総裁

代氏名内閣就任日退任日党派備考
経済安定本部総裁(
内閣総理大臣
1吉田茂第1次吉田内閣1946年8月12日1947年5月24日日本自由党


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