しかし江戸後期に入って次第に貨幣経済が浸透すると「経済」のなかでも「社会生活を営むのに必要な生産・消費・売買などの活動」という側面が強調されるようになっていった。海保青陵は、自著で専ら現在と同じ意味で用いており、これは「経済」という語の早い例である。ただ青陵によると、当時の大坂で「経済家」といえば、治政一般ではなく「金銀の事」に詳しい者を指したと言い、大坂商人の間では現代的な用法は既に常識的だったようだ[4]。19世紀前半の正司考祺『経済問答秘録』に「今世間に貨殖興利を以て経済と云ふは謬なり」とあるように、(考祺は批判的に指摘しているものの)今日の用法に近い「経済」が普及していた[5]。以上のような用法の変化は、明・清代の中国の俗語において、金銭・財務に関連する(古典的用法と異なる)用法が広まったことの影響とする杉本つとむの見解[6]もある。 幕末期になり、新たに交流が始まったイギリスなどから古典派経済学の文献が輸入されるようになると、「経済」の語は新たに"economy
economyの訳語としての「経済」の定着
しかし「経済(学)」がエコノミーもしくはポリティカル・エコノミーの訳語として定着するには若干の問題があり、例えば西周は『百学連環』(1870年(明治3年)刊)で、エコノミーとポリティカル・エコノミーの区別を重視して前者に「家政」、後者については国家の「活計」を意味するものであり、津田の訳語「経済学」では活計の意味を尽くしていないとして「制産学」の訳語を与えている。このように個人(もしくは企業)の家計・会計と国家規模の経済運営を分けて考える立場はしばらく影響力を持ち、後者については「理財」の訳語が用いられることもあり(1881年刊『哲学字彙』では"economicsの訳語)明治初期の大学・専門学校の学科名としては「理財学」がしばしば用いられた。しかし国家レベルと個人・企業レベルのエコノミーを包括して「経済」とする用法が次第に普及することになり、現在に至っている[8]。また江戸時代以来の「貨殖興利」という用法も存続したため、本来の「経済」の語に含まれていた「民を済ふ」という規範的な意味は稀薄となった。
また、この新しい用法は本来の意味の「經濟」という語を生み出した中国(清)にも翻訳を通じて逆輸出され、以後東アジア文化圏全域で定着した。
脚注^ 『大漢和辞典』『字通』など。
^ 神田信夫「経済特科」『アジア歴史事典』平凡社。
^ 島崎隆夫「日本経済思想の研究史」、前掲、116頁。
^ 徳盛誠 『海保青陵 江戸の自由を生きた儒者』 朝日新聞社、2013年、はじめに(iv)。
^ 島崎、同上。
^ 杉本つとむ、前掲、参照。
^ なお上野戦争時、福沢諭吉が芝にあった慶應義塾で講義していたのもF・ウェイランド(F.Wayland)の著書"The Elements of Political Economy"(1837年)であった。
^ 以上、佐藤亨・重田園江、参照。
参考文献
辞典類
佐藤亨『現代に生きる幕末・明治初期漢語辞典』(明治書院、2007年)「経済家」「経済学」の項目
杉本つとむ『語源海』(東京書籍、2005年)「経済」「経済学」の項目
『哲学・思想翻訳語辞典』(論創社、2003年)「経済」の項目(重田園江:執筆)
『日本社会経済史用語事典』(朝倉書店、1972年)「経済」の項目(山内邦夫:執筆)
論文
島崎隆夫「日本経済思想の研究史」慶應義塾大学経済学会『日本における経済学の百年』(上)日本評論新社、1959年
関連項目
経世致用の学・経世論 - 前近代の東アジア・日本における「經世濟民」の論。
経世会
理財
経済思想史
官房学 - 前近代ドイツ独自の学問で現在でいう経済学・行政学・財政学など幅広い分野を包括していた。